写真①:赤や白の花が見ごろの〝クリスマスローズの庭〟
=福岡県新宮町三代で、2007年2月19日午後0時03分撮影
福岡県新宮町三代(みしろ)の住宅に、花好きの訪問者が外から自由に拝見できる珍しい〝クリスマスローズの庭〟=写真①=があると聞いて2月19日午後、細君とドライブがてら訪ねました。
福津市津屋崎から国道3号線を博多方面へ向かい、「三代」交差点を左折し、すぐまた左折して行くと、道路右側にありました。「米山印刷福岡営業所」の看板の向かいにある農家らしい住宅の前庭です。
用水路を隔てて道路に面した住宅前庭に、赤や白のクリスマスローズ(キンポウゲ科)が咲いていました=写真②=。庭園木の下草のように植栽され、静かに花を愛でる雰囲気がいいですね。花に見える部分は、植物学的には「花」ではなく「がく片」のため、比較的長い期間観賞できます。
楚楚とした赤い花を付けているのは、花期が2月下旬から4月までと長いハルザキクリスマスローズと思われます。園芸店ではクリスマスローズの名で売られるのが多いものの、本当のクリスマスローズは、クリスマスのころに白い花を付ける「Helleborus niger(ヘレボルス・ニゲル)」のこととか。
写真②:楚楚とした赤い花を開いたクリスマスローズ
=福岡県新宮町三代で、07年2月19日午後0時01分撮影
福岡県新宮町三代の〝クリスマスローズの庭〟位置図
(ピンが立っている所)
〝クリスマスローズの庭〟を後にして、車を東へしばらく走らせると、突き当たった三叉路の向こうに「太閤水」なる名所がありました=写真③=。今も住民に汲まれて利用されている井戸水です。
写真③:石畳の井戸場が造られ、今も住民に汲まれて利用されている「太閤水」(左側の建物。右側はお地蔵様の建物)
=福岡県新宮町三代で、07年2月19日午後0時09分撮影
そばに新宮町教育委員会が平成17年に立てた解説板=写真④=があり、次のように書かれていました。
〈天正十五年(1587年)、九州を平定した豊臣秀吉が、大阪への帰路ここで、馬を休め自ら清水を汲んで飲んだ所です。
当時、九州の大部分に勢力を伸ばしていた島津義久に対抗し、孤軍奮闘していた立花宗茂(立花道雪の養子)を助けるため、秀吉は二十万の大軍を自ら率いて九州へ乗り込んできました。この秀吉を追って九州入りした堺の茶人「津田宗及」は三代の里で水を求めましたが、あまりよい水ではなかったので自ら井戸を掘り湧き水を得ました。秀吉はこの水を飲んでたいそう喜び、掘った者の名を聞き即座に「宗及水」と名付けました。
その後、京都大徳寺の江月和尚(宗及の子)が立ち寄った際に「飲銅水」と改められましたが、後世に石畳の井戸場が造られ太閤秀吉にちなんで「太閤水」と呼ぶようになりました〉
勉強になりましたね。そういえば、福津市畦町の旧唐津街道筋にも、秀吉がこの年の島津征伐の途中、清水を飲んでのどを潤したという伝説から「太閤水」と呼ばれるようになった史跡が残っているのを思い出しました。
写真④:新宮町教育委員会が立てた「太閤水」の解説板
=福岡県新宮町三代で、2月19日午後0時09分撮影
福岡県新宮町の「太閤水」位置図
(ピンが立っている所)
=福岡県新宮町三代で、2007年2月19日午後0時03分撮影
福岡県新宮町三代(みしろ)の住宅に、花好きの訪問者が外から自由に拝見できる珍しい〝クリスマスローズの庭〟=写真①=があると聞いて2月19日午後、細君とドライブがてら訪ねました。
福津市津屋崎から国道3号線を博多方面へ向かい、「三代」交差点を左折し、すぐまた左折して行くと、道路右側にありました。「米山印刷福岡営業所」の看板の向かいにある農家らしい住宅の前庭です。
用水路を隔てて道路に面した住宅前庭に、赤や白のクリスマスローズ(キンポウゲ科)が咲いていました=写真②=。庭園木の下草のように植栽され、静かに花を愛でる雰囲気がいいですね。花に見える部分は、植物学的には「花」ではなく「がく片」のため、比較的長い期間観賞できます。
楚楚とした赤い花を付けているのは、花期が2月下旬から4月までと長いハルザキクリスマスローズと思われます。園芸店ではクリスマスローズの名で売られるのが多いものの、本当のクリスマスローズは、クリスマスのころに白い花を付ける「Helleborus niger(ヘレボルス・ニゲル)」のこととか。
写真②:楚楚とした赤い花を開いたクリスマスローズ
=福岡県新宮町三代で、07年2月19日午後0時01分撮影
福岡県新宮町三代の〝クリスマスローズの庭〟位置図
(ピンが立っている所)
〝クリスマスローズの庭〟を後にして、車を東へしばらく走らせると、突き当たった三叉路の向こうに「太閤水」なる名所がありました=写真③=。今も住民に汲まれて利用されている井戸水です。
写真③:石畳の井戸場が造られ、今も住民に汲まれて利用されている「太閤水」(左側の建物。右側はお地蔵様の建物)
=福岡県新宮町三代で、07年2月19日午後0時09分撮影
そばに新宮町教育委員会が平成17年に立てた解説板=写真④=があり、次のように書かれていました。
〈天正十五年(1587年)、九州を平定した豊臣秀吉が、大阪への帰路ここで、馬を休め自ら清水を汲んで飲んだ所です。
当時、九州の大部分に勢力を伸ばしていた島津義久に対抗し、孤軍奮闘していた立花宗茂(立花道雪の養子)を助けるため、秀吉は二十万の大軍を自ら率いて九州へ乗り込んできました。この秀吉を追って九州入りした堺の茶人「津田宗及」は三代の里で水を求めましたが、あまりよい水ではなかったので自ら井戸を掘り湧き水を得ました。秀吉はこの水を飲んでたいそう喜び、掘った者の名を聞き即座に「宗及水」と名付けました。
その後、京都大徳寺の江月和尚(宗及の子)が立ち寄った際に「飲銅水」と改められましたが、後世に石畳の井戸場が造られ太閤秀吉にちなんで「太閤水」と呼ぶようになりました〉
勉強になりましたね。そういえば、福津市畦町の旧唐津街道筋にも、秀吉がこの年の島津征伐の途中、清水を飲んでのどを潤したという伝説から「太閤水」と呼ばれるようになった史跡が残っているのを思い出しました。
写真④:新宮町教育委員会が立てた「太閤水」の解説板
=福岡県新宮町三代で、2月19日午後0時09分撮影
福岡県新宮町の「太閤水」位置図
(ピンが立っている所)