改めて 無観客でやる意味は

2021年07月09日 08時13分42秒 | 東京2020
五輪の無観客開催決定に「ほら見たことか!」 とたたみかけて非難するつもりはない。
しかし、「無観客だから感染拡大が防げて良かった」というものじゃないだろうと思うのです。もう一歩突っ込んで考えないと、「玉虫色のまま、ごまかされて」進むことになるんじゃないかということです。
今考えておくべきと思うのは「無観客のスタジアムで行われる競技」は「五輪の真の姿だろうか?」という視点です。ここにちゃんとした自分の結論を持ってないとただ単に「踊らされる国民」になっちゃいますよと言いたいのです。
大昔の五輪は当然観客なんていなかったわけで、集まってきたアスリートが競いあっただけだったろう。と考えれば、「無観客もあり」との結論もありだろう。ましてや将来を考えると地球上どこにいてもNETで見れるという環境になり、「無観客」が当たり前になるのかもしれない。
でも僕は「今は観客が有っての祭典だ」との結論を持ってる。あくまでも「21世紀前半の今は」との条件付きです。それはアスリート自身も観客の興奮、声援を感じながらパフォーマンスすることが自分の本質と捉えてるんじゃないだろか。その点では今回の代表になったアスリートの方たちに本心を聴いてみたいな。「あなたが最高のパフォーマンスが出来ると思う競技環境は?」。その答えはおそらく「客の声援があり、競技場全体が興奮してる」となるんじゃないでしょうか。
だとすると、今無観客で開く五輪は「アスリートが黙々と競う」だけの不思議な大会になるんでしょう。「平和の祭典」なんてどこにも感じられない大会にならざるをえないと思うのです。
改めて「五輪とは何で、今後どうしていけばいいのか」を考えてみるきっかけにすることが「一番のレガシー」なんじゃないでしょうか。
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