いのちのために働く

 「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」(ヨハネ6:26-31)

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 イエスのなした五千人の給食、それはわずかなパンをイエスが祝福して、五千人の腹を満たした奇跡。
 彼らはこのイエスの後を追って、追いつく。
 そしてイエスとの問答が始まる。

 彼らがイエスを追ったのは、五千人の給食に神を見たのではなく、単にまたパンが欲しかったから、あるいはいつでもパンを出してくれる便利この上ない人だからだ。
 イエスのおことばを聞いた彼らは問う。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか」。
 イエスは仰る。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」。
 すると彼らは、「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか」と言い出す。
 さっきの五千人の給食を経験してそれがしるしだとはかけらも思わなかった彼らは、しるしを見せろ、マナのことは知ってるよなとか、訳の分からないことを言っている。
 こういうのを、なくなる食物のために働くという。
(働いてはいないが。)
 カネを稼ぐということのみを目的として働くとしたら、金額の多寡にかかわらず、それはどんなに空疎で空しいことだろう。
 それ以上の何かを、おそらくどの人も求めていることと思う。

 イエスは「いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです」と仰る。
 「いのちに至る食物のために働きなさい」。
 それは明らかに、「それ以上の何か」だ。
 「いのちに至る食物」とは例えば聖書だが、その聖書から「いのち」をくみ取ることができるかどうかは、分からない。
 イエスが与えてくださるものだが、密室に閉じこもってじっとしていても、どうなるものでもない。
 働いていると、調子の良いときもあれば絶望するときもある。
(今、「働く」という言葉を非常に広く考えている。)
 絶望し、その最果てまで行くときに、光が輝く。

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