種蒔きのたとえ

 「ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイ13:18-23)

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 聖書に接し最初に上の「種蒔きのたとえ」に接したとき、私は「自分は『岩地』にはならないぞ」と思ったものだ。飽きっぽく、また根性もなかったからだ。
 だが、とんでもない勘違いをしていたものだと、今は思う。

 「道ばた」。
 「岩地」。
 「いばら」。
 「良い地」。
 おそらく人というのは、この四種類のうちのどれかなのではないだろうか。

 そして自分がどれで他人はどうかということは、たやすく分かる類のものではなかろう。
 だが、例えば現代日本では、圧倒的に「道ばた」が多いということは、まあ妥当だろう。上に書いた8年前の私のように聖書に向かい始める人自体が、なにしろ例外的なのだから。
 そしてその私は、意外や「岩地」ではなかったことは、8年を経て確認できる。
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