イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
あかしされるイエス
「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。
しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。
……
もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。
これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。
わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。
あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。
これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。
人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。
彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。」(ヨハネ15:18-19,15:24-16:3)
---
さくじつは、神は世を愛してイエスを信じる者をお救いになる旨のことを書いた。
そのことは上の引用聖句では「わたしが世からあなたがたを選び出した」と書かれている。
今日の聖書箇所は、イエスから弟子への最後の説教から。
「会堂」は、ユダヤ教のシナゴーグ。
つまり人々が安息日に大挙して集まる場所で、コミュニティの中心。
世から選び出された結果、そのコミュニティの中心からも、追放されるという。
何故かというと、選び出したイエスはそれ以上に世から憎まれたからだ。
そのイエスを信じる者もまた、世から憎まれる。
このように憎まれる中、このことがあるから大丈夫、そういう一行が上の引用聖句の中にある。
「父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」。
イエスがあかしされた「いのち」ある人は、それを支えに世を生き抜く。
「それ」とは、あかしされたイエス。知っているイエス。いのちを与えてくださったイエス。
だから偶像など全く不要だし、「頼れる人間に寄りかかる」ことも、ない。
(だいたい、何が偶像になるのだろうか。)
どういう最期になるかは神がご存じで、それを知る必要は、ない。
そしてその先は、既に約束されている。
イエスがあかしされているのだ。
だからそれだけを頼りにして、いちにちいちにちを、たんたんと過ごしてゆけばよい。
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もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。
しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。
……
もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。
これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。
わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。
あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。
これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。
人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。
彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。」(ヨハネ15:18-19,15:24-16:3)
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さくじつは、神は世を愛してイエスを信じる者をお救いになる旨のことを書いた。
そのことは上の引用聖句では「わたしが世からあなたがたを選び出した」と書かれている。
今日の聖書箇所は、イエスから弟子への最後の説教から。
「会堂」は、ユダヤ教のシナゴーグ。
つまり人々が安息日に大挙して集まる場所で、コミュニティの中心。
世から選び出された結果、そのコミュニティの中心からも、追放されるという。
何故かというと、選び出したイエスはそれ以上に世から憎まれたからだ。
そのイエスを信じる者もまた、世から憎まれる。
このように憎まれる中、このことがあるから大丈夫、そういう一行が上の引用聖句の中にある。
「父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」。
イエスがあかしされた「いのち」ある人は、それを支えに世を生き抜く。
「それ」とは、あかしされたイエス。知っているイエス。いのちを与えてくださったイエス。
だから偶像など全く不要だし、「頼れる人間に寄りかかる」ことも、ない。
(だいたい、何が偶像になるのだろうか。)
どういう最期になるかは神がご存じで、それを知る必要は、ない。
そしてその先は、既に約束されている。
イエスがあかしされているのだ。
だからそれだけを頼りにして、いちにちいちにちを、たんたんと過ごしてゆけばよい。
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