パトモス

 「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」(黙1:9)

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 黙示録を書いたヨハネさんは、パトモス島に幽閉されて、この黙示録を書き出す。
 そのヨハネさんは、こう自己紹介する。
 「あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者」。

 イエスにある苦難。
 御国。
 忍耐。

 御国を明確に認識している(というより、自明のこととはなから思っている)のは、「いのち」に預かって救われているということだ。
 ただ、そのためならではの、イエスにある苦難があり、それを辛抱強く忍耐する必要がある。
 「いのち」があるのだ、並大抵ではない忍耐力があるはずだ。

 パトモスにいても、パトモスから出ても、これだけの素晴らしき「いのち」に預かっていることには変わりない。
 それがなかった頃のことを思い起こせ、一目瞭然だ。
 だから、パトモスで苦難にあるときにも、よく忍耐を働かせることができる。
 約束されているのだから。

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[付言]
 本日は当初の予定が狂って、新たに書く時間が与えられました。

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アダムの肉

 「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。
 神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:1-4)

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 律法は素晴らしいものだ。
 ただ、この神の律法、完璧な律法を守ること、守り通すことが、人間にはどうしてもできない。
 というのも、人間にはアダムの肉が備わっているからだ。
 アダムの肉は、神の定めた律法を完遂しようとしてもできず、「救い」にもれていた。
 聖書にはこの状態を、「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました」と書かれている。

 何を「神はしてくださ」ったのだろうか。
 「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです」。
 神の子イエスにアダムの肉を被せて、その上で世にお遣わしになった。
 「人間・イエス」。
 人間・イエスは、処罰されるがために、この世に来られた。
 神がまとったアダムの肉は、最も罪深い人物として十字架の上で徹底的に処罰された。
 神が下した処罰だ。
 何を処罰したのだろう?
 イエス、ではなく、アダムの肉、これを処罰された。

 「アダムの肉の処罰」、これが「腑に落ちたとき」、「彼の中のアダム」も処罰される。
 そのとき、「律法の要求が全うされる」、すなわち、律法に照らして罪( sin )はないとみなされる。
 実際に罪は、ある。
 だが、ないと「みなされる」。
 彼の「救い」だ。
 アダムの肉は処罰され、罪と死の原理から解放された。
 「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」。
 処罰されたアダムの肉を持ち続けていても無罪だ。安んじてよい。

 アダムの肉は、自分で処理しようとしても、けっしてできない。
 どうしても、「処罰され」る類のものだ。
 だから、修行の類は、この「処罰」に関しては全く無意味だ。


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[おことわり]
 本日の記事は、今年9月12日の記事の再掲です。

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