イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
イエスを知る
「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:1-3)
---
人は何故、その人に従うのだろうか。
その人が彼に対して「力」または「影響力」を持っているからだろう。
神の支配、その権威の力には、絶大なものがある。
どんなにじたばたしても、死に逆らうことはできない。
誰一人とて、自然界の天変地異の発生を食い止めることはできない。
どんな人にもどうすることもできない、それだけ力ある権威だ。
神はイエスに、その絶大な権威をお与えになった。
「あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため」だ。
それによって、病人をいやし、目の見えない人を見えるようにし、死人をすら生き返らせられた。
ひとりでも多くの者がイエス御自身を信じるために。
ただ、「あなたからいただいたすべての者」と単なる「すべての者」とは、全く異なる。
前者が99に比して後者が1なのか、それとも前者が1に比して後者が99なのかは、誰にも分からない。ただ、両者は異なる。
では、「永遠のいのち」とはなんだろうか。
イエスは父への祈りの中で、「彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ること」と仰っている。
じっさい、「いのち」とはイエスを知ること、それ以上でもそれ以下でもない。
だから上のイエスの祈りは、たとえではなく、ありのままを仰ってくださっている。
そして、イエスを知るということは、注解書や古代ギリシャ語といった事柄とは全く関連性がない。
関連性がないので、注解書の類を熱心にめくりつつイエスに巡り会う人というのも、もちろんいるはずだ。ただ、彼はその時、そんな書物はあっさり捨て去ってしまうに違いない。
(私も実は、かつて注解書を買ったし、借りもした。)
おとつい、「イエスは会う」というタイトルで書いた。
復活のイエスに会いそのイエスを知ることによってしか、「いのち」へは至らない。
わたしたち個々に出来る唯一のことは、祈ることだけだ。
祈るとき、(ご利益でないならば)自分が下で神は圧倒的に上だ。
そのへりくだった姿勢でただ祈り続けるより他、人間はことこのことについて何ひとつできない。
祈り求めること、これは「いのち」への狭き道だ。
自分は「あなたからいただいたすべての者」なのだと信じて。
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それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:1-3)
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人は何故、その人に従うのだろうか。
その人が彼に対して「力」または「影響力」を持っているからだろう。
神の支配、その権威の力には、絶大なものがある。
どんなにじたばたしても、死に逆らうことはできない。
誰一人とて、自然界の天変地異の発生を食い止めることはできない。
どんな人にもどうすることもできない、それだけ力ある権威だ。
神はイエスに、その絶大な権威をお与えになった。
「あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため」だ。
それによって、病人をいやし、目の見えない人を見えるようにし、死人をすら生き返らせられた。
ひとりでも多くの者がイエス御自身を信じるために。
ただ、「あなたからいただいたすべての者」と単なる「すべての者」とは、全く異なる。
前者が99に比して後者が1なのか、それとも前者が1に比して後者が99なのかは、誰にも分からない。ただ、両者は異なる。
では、「永遠のいのち」とはなんだろうか。
イエスは父への祈りの中で、「彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ること」と仰っている。
じっさい、「いのち」とはイエスを知ること、それ以上でもそれ以下でもない。
だから上のイエスの祈りは、たとえではなく、ありのままを仰ってくださっている。
そして、イエスを知るということは、注解書や古代ギリシャ語といった事柄とは全く関連性がない。
関連性がないので、注解書の類を熱心にめくりつつイエスに巡り会う人というのも、もちろんいるはずだ。ただ、彼はその時、そんな書物はあっさり捨て去ってしまうに違いない。
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復活のイエスに会いそのイエスを知ることによってしか、「いのち」へは至らない。
わたしたち個々に出来る唯一のことは、祈ることだけだ。
祈るとき、(ご利益でないならば)自分が下で神は圧倒的に上だ。
そのへりくだった姿勢でただ祈り続けるより他、人間はことこのことについて何ひとつできない。
祈り求めること、これは「いのち」への狭き道だ。
自分は「あなたからいただいたすべての者」なのだと信じて。
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