イエス・キリストを告白する霊

 「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」(1ヨハネ4:1-3)

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 新約聖書には、「告白」という語句が21箇所出てくる。
 今さっき、調べた。あの分厚い旧約聖書よりも、かなり多い。
(ギリシャ語の訳出とヘブル語の訳出との違いもあるかも知れない。)
 私は以前、この「告白」という語句が分からないと書いた(こちら)。
 上の聖書箇所にも、「イエス・キリストを告白する霊」、「イエスを告白しない霊」とある。

 ”霊”というものがあるとして(いやあるのだが)、その”霊”は、必ずや「人となって来たイエス・キリストを告白する」ことだろう。
 イエスを告白する、のではなく、さらに踏み込んで、人となって来たイエス・キリストを告白する。
 イエスが十字架に架かってから二千年を経て、今なお、この人となって来られたイエスに出会う人がたくさんいる。
 「告白」という語句には、深い得心を得させる語りかけ、そういうニュアンスを受ける。

 ちなみに、ここまで意図的に”霊”と記してきたが、これは新共同訳での記法で、「聖霊」や「御霊」といった概念のことだ。
 その”霊”に触れることは、「人となって来たイエス・キリスト」が告白されて、イエスこそ救い主であったとはっきり了解できるということだ。
 喜びがひとしおなのも、無理もない。
 だからといって、今の世には異言だの預言だのというのは、ない。
 それどころか、異言や預言をもっぱら追い求めているのでは、それでは順序がまったく逆になってしまう。これらのものは「しるし」であったからだ。
 パウロは、こう書いている。

 「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。」(1コリント13:8-10)

 完全なもの、というのは、「人となって来たイエス・キリスト」、その了解についての完全さだ。
 そして、新約聖書の成立、そして誰もがそれを読むことができるようになって、「人となって来たイエス・キリスト」を了解する土台はとうに整っている。
 「しるし」なしにそのことが了解されるならば、異言とか預言といった「しるし」は全く不必要になる。

 そうすると、”霊”の働きを何によって知るというのだろうか。
 いや、知る必要そのものが、ない。
 ただ、神からの恵みによって、「人となって来たイエス・キリスト」を了解できればよいのだ。
 日頃から聖書に接していれば、そのときにそのことが分かるはずだ。
 救い主が、聖書の約束通りに、彼の下に来たのだ。
 そして、そのことの了解とその喜び以上には、いったい何が必要なのだろうか。

 だから必要なことは、「しるし」を追い求めることではなく、「告白」を聞き分ける耳を持つことだ。

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