祈ることのみ

 「キリスト教徒は絶え間なく祈るべきなり。
 しかり、彼の生命は祈祷なり。
 彼なお不完全なれば祈るべきなり。
 彼なお信足らざれば祈るべきなり。
 彼よく祈りあたわざれば祈るべきなり。
 恵まるるも祈るべし。
 のろわるるも祈るべし。
 天の高きに上げらるるも、陰府(よみ)の低きに下げらるるも、われは祈らん。
 力なきわれ、わが能(あた)うことは祈ることのみ。」
(内村鑑三「求安録」の「最終問題」の項より)

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 ひさしぶりに内村鑑三の「求安録」より。

 祈る対象は、神でありイエスである。
 上の引用は、どんなときにも神に祈るべきだ、ということに丸めることができる。
 神だけは、ただひとりのあなたの本当の理解者であり、そして、この神には何でも言うことができる。
 感謝。求め。愚痴等。
 この絶対者であるお方は、全て聞き届けてくださる。
 だから、あらゆる局面で祈るべきだ。
 それは、この絶対者と対話することだ。
 この対話がおろそかになるとき、自らの力を過信しだす。

 さて、イエスがこう祈りなさいと教えてくださった「主の祈り」にある「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」(マタイ6:13)は、罪深きアダムの肉を持つ私たちがささげることのできる中で、最も基本的な祈りではないかと思うことがある。
 アダムの肉は、とかく試みに会いやすい。「誘惑」といった方が近い。
 この「試み」を生じさせないことによって「悪からお救いください」というのは、アダムの肉が悪へと走りやすいことの自覚なくして祈ることはできない。
 それで、「最も基本的な祈りではないか」と書いた。

 罪深い、力なき者なのだ。私たちは。
 「わが能(あた)うことは祈ることのみ」、できることは祈ることしかない。

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