イエスはその人に君臨して主となる。主よと言われて主になるわけではない

 「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)

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 もうずっと前、すがりつくように聖書を読み続けていた頃、マルコ伝のある箇所でのイエスの言葉をとても嫌みに感じていた頃があった(それがどの箇所なのか、今では思い出せない)。
 そしてその箇所を読むときには、あわれみ深い主のおことばをどうしてこう感じてしまうのだろうといつも葛藤を覚えていた。なぜなら、そのころの私にとって、主イエスがあわれみ深いお方であるということは当たり前の大前提だったからだ。
 しかし、信仰とは信じるものというよりも信じさせられるものなのである。
 私が主よとイエスを追い求めるというよりも、イエスが私のもとを訪れるのである。イエスが私の主である根拠はこのことにある。
 過日の我田引水の日々は、イエスが私の主として君臨したそのときに過ぎ去った。

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 イエス様の平安がありますように!

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