信じるということ

 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。
 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:13-17新共同訳)

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 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のだが、一体主の御名をどのようにして信じるというのであろうか。
 たしかなところ、「宣べ伝える人」の存在なしには、「主」という概念自体、小耳にも入らない。
 その概念を耳に入れてくれることは、街宣みたいなものでなければ基本的にありがたい。
(この点で、私はギデオン協会を支援するのである。)
 ただ、彼らの役割は、小耳に入れた段階までだ。

 預言者イザヤは、手厳しい。
 「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」。
 聞いても信じない者が、ほとんどなのだ。

 だから、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」。
 キリストの言葉をきちんと聞けるようになってはじめて、信じた、信仰だという状態だということができる。

 あるところで、目からうろこが落ちてキリストの言葉が光り輝く時が来るはずだ。
 何故なら、そのためにこそキリストは自らを死に渡し、三日目に復活されて自らを信じる者達にのみ、その御姿を現されたからだ。

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