イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
ことにこの取税人のように
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18:10-14)
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イエスの例え話より。
パリサイ人と取税人とが、宮に上る。
このパリサイ人は言う。
「ことにこの取税人のようではないことを、感謝します」。
取税人というのは、これほどまでに、けなされ、憎まれている。
その取税人は、神殿から遠く離れ、「目を天に向けようとも」しない。
自分の胸をたたく。
(悲しみの表現だったと思う。)
この取税人は、なぜ悲しんでいるのか。自分にはその資格すらないとでも言いたげなのか。
さらに取税人は言う。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」。
この取税人は、パリサイ人に「ことにこの取税人のようではないことを、感謝します」と言われても仕方がない者であることを心から認めて、それで悲しみでいっぱいなのである。
宮で「こんな罪人の私をあわれんでください」と祈るのが精一杯。
他方、パリサイ人は「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」と、すらすら口上を述べる。
イエスは仰る。
「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」。
それは、「ことにこの取税人のよう」とまで人様から言われてしまうほどの自らの悪さを、とことんまで自省し、神にあわれみを求めたからだ。
このことを、端的に悔い改めと言ってもいい。
イエスのこの例え話は、救いの型といっていいかもしれない。
この悔い改めに至るのであれば、必ず救われて「いのち」を得るからだ。
というより、悔い改め、イコール、救いと直結させても誇張ではないほどだ。
救いはもちろん一度きりだから、悔い改めもまた、一度きりである。
このパリサイ人は不幸だ。
自分の悪さに気付く機会が、きわめて少ないだろうから。
「私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、……週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」、このように、実にあっけらかんと言ってしまえる。
「ことにこの取税人のようではない」と言われる取税人は、この点かえってよかったのだ。
神はどちらの側をあわれんでおられるか、ということをたとえた話だ。
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パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18:10-14)
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イエスの例え話より。
パリサイ人と取税人とが、宮に上る。
このパリサイ人は言う。
「ことにこの取税人のようではないことを、感謝します」。
取税人というのは、これほどまでに、けなされ、憎まれている。
その取税人は、神殿から遠く離れ、「目を天に向けようとも」しない。
自分の胸をたたく。
(悲しみの表現だったと思う。)
この取税人は、なぜ悲しんでいるのか。自分にはその資格すらないとでも言いたげなのか。
さらに取税人は言う。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」。
この取税人は、パリサイ人に「ことにこの取税人のようではないことを、感謝します」と言われても仕方がない者であることを心から認めて、それで悲しみでいっぱいなのである。
宮で「こんな罪人の私をあわれんでください」と祈るのが精一杯。
他方、パリサイ人は「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」と、すらすら口上を述べる。
イエスは仰る。
「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」。
それは、「ことにこの取税人のよう」とまで人様から言われてしまうほどの自らの悪さを、とことんまで自省し、神にあわれみを求めたからだ。
このことを、端的に悔い改めと言ってもいい。
イエスのこの例え話は、救いの型といっていいかもしれない。
この悔い改めに至るのであれば、必ず救われて「いのち」を得るからだ。
というより、悔い改め、イコール、救いと直結させても誇張ではないほどだ。
救いはもちろん一度きりだから、悔い改めもまた、一度きりである。
このパリサイ人は不幸だ。
自分の悪さに気付く機会が、きわめて少ないだろうから。
「私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、……週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」、このように、実にあっけらかんと言ってしまえる。
「ことにこの取税人のようではない」と言われる取税人は、この点かえってよかったのだ。
神はどちらの側をあわれんでおられるか、ということをたとえた話だ。
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