無理解な十字架

 「こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、そこにすわって、イエスの見張りをした。また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。
 そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。
 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」
 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」
 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」(マタイ27:35-44)

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 イエスが十字架にはりつけにされた箇所。

 エルサレム入城の時に「ホサナ」と叫んでイエスを迎え入れた群集は、今、十字架のイエスを見て「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」と口々にののしっている。
 祭司長達は、勝ち誇る。
 弟子たちは、どこかへ消えてしまった。
 イエスと行動を共にした数人の女性が遠巻きに見ているだけだ。
 イエスは、ただひとりなだけでなく、ののしりと敵意が渦巻く中、無言で十字架に架かっている。

 イエスが人々を救い続けたのは、それが証明となるからだ。
 そして今御自身を自ら救わないのは、このアダムの肉の処罰を自ら行うためである。そしてこれは、いけにえでもある。
 イエスは、このためにこの世に来られた。
 そのことに全く無理解な者たちが、イエスをののしる。

 私もかつて、全く同様に無理解な一人であった。

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