密やかな理解者

 「そこで、エルサレムのある人たちが言った。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。
 見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。
 けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」(ヨハネ7:25-27)

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 福音書の登場人物というと、イエス、その弟子、パリサイ人やサドカイ人、群集と、4つの立場に大別できよう。
(乱暴なのは承知の上だ。)
 しかし、ヨハネ福音書での上の聖書箇所は、どの立場の誰が話しているのかが、全く分からない。
 「エルサレムのある人たち」。
 ひとつ言えることは、彼らはイエスを救世主・キリストだと信じている、ということだ。
 だが、そのことを表だっては、言わない。
 ただひそひそと、言い合っている。
 誰だろう、この人は…。
 声なき声。

 表に出てはくれないものの、密やかなところで理解してくれている人。
 いわば、密やかな理解者。
 イエスには、この密やかな理解者がいた。
 そしてこれはイエスに限ったことではない。
 どの人にも必ず、この密やかな理解者がいてくれる。
 それは神、かも知れない。人々なのかも知れない。

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