真理とは

 「そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。
 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」
 彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」
 すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ。」と言った。このバラバは強盗であった。
 そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。」(ヨハネ18:37-19:1)

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 「真理」に属する者は、みなイエスに聞き従う。

 ところで「真理」とは何だろう。
 辞書には、どう載っているだろうか。
 教理書では、どうだろう。
 そういうところに転がっているような平板で生やさしいものではないはずだ。
(私はかつて、「ヘブル語での愛」を調べたことがあるが、不満が多かった。)

 さて、総督ピラトはイエスの釈放を提案するのだが、大祭司達は強盗バラバを釈放することを要求する。
 イエスはこの時点で、強盗を犯した者よりも重罪人扱いを受け、むち打たれる。

 とすれば、イエスの声に聴き従う者もまた、イエス同様の仕打ちを受けないだろうか。

 次のようにあるとおりだ。
 「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。」(使徒5:41)

 この、ある種の不可解さの中に、「真理」が潜んでいることだろう。

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