助け主

 「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
 また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」(ヨハネ16:7-11)

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 上の引用聖句を、私はまだよく分からない。
 特に、「助け主」が来ると、「世にその誤りを認めさせ」るというくだり。
 「助け主」は人に来られるのだから、その人が「世の誤り」をよく見渡せるようになる、というのならば通りはよい。
 ところがそうではない。
 「世『に』その誤りを認めさせ」る。
 いずれ分かるだろう。
 今はここが分からない、ということの認識も大切なことのはずだ。

 それはそうととりあえず人間は、復活のイエスを信じて義とされるか、信じずに義とされないかのどちらかだ。
(イエスを信じているつもりの人というのは、もちろん後者に分類される。)
 義の反対は罪であるから、信じない者には罪がある。
 安息日の遵守とか、そういった律法の事細かなこととは全く異なる判断基準、それが「信じる」ということだ。これをイエスは公生涯を通してお示しになった。

 さばきは、正しきイエスを裁いたが故に支配層が裁かれた、ということ。

 そういったことを、「助け主」は教えてくださる。
 「助け主」というと、自分をいつも支えてくれる便利な存在のように勘違いしやすいが、それでは「ハピサク」と同じで御利益でしかない。
 自分の願望達成を助ける存在ではなく、イエスを教えてくださって信じさせてくださる存在であり、そうであるからこそ真の助け主なのである。

 信じる、ということは、それほど難しいことだと思っている。

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