『姦淫してはならない。』

 「 『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ5:27-30)

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 「姦淫してはならない」は、十戒の中のひとつ(出エジプト20:14)。
 神がモーセを通して人々に与えた戒めだ。
 人々はこの戒めに、勝手な解釈を施し続ける。
(というより、解釈は開発され続けるものだ。)
 だから「姦淫してはならない」、これはは守れてるかなあ、とか思う。
 しかしイエスは、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」と、厳格な解釈を施す。
 「姦淫してはならない」を守り通せる人など、誰一人いないのだ。
 それほどまでに、アダムの肉は罪深い。

 その罪深さから逃れてゲヘナ(地獄)を避けるがために、自ら右目をえぐりだし、右手を切り取ってしまうのだろうか。
 その必要は、全くない。
 なぜなら、こう仰ったイエス御自身が、この説教ののちに御自身を切り取ってしまう十字架に架かり、そしてありえない復活をされたのだから。
 この復活のイエスに出会った人は、罪赦されたことを実感できる。
 それならば、右目にも右手にも、手を付ける必要はない。
 赦された上で、どうして自らからだを失う必要があるだろう。
 そもそも罪赦されたと信じているので、ゲヘナへの恐怖は消散している。

 言い換えると、律法に対するイエスの厳格解釈を受け入れること自体が、自分の目をえぐり出し、自分の右の手を切り落とすことと同じことだ。
 その厳格解釈を受け入れ続けると、彼は、死ぬ。
 パウロは書いている。「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました」(ガラテヤ2:19)。
 それで律法に死ぬと、生きる。
 これは、イエスが御自身のアダムの肉を十字架に架けて死んで、そして復活されたことと、全く同じだ。

 その意味では、律法という剣によって全身を神に切り渡さない限り、イエスの仰るとおりゲヘナに落ちてしまう。
 アダムの肉は全身丸ごとなので、目や手だけでない。
 目だけ捨ててしまっても、耳や口が何かを犯すだろう。
 だから結局、全身が対象にならざるを得ない。
 しかし、全身切り渡したとき、「神に生きる」ことになる。
 だからイエスは、こんなに厳しいことをここで仰っている。
 神に全身切り渡したとき、ゲヘナははるかかなたに遠のいているはずだ。

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