神によって生まれた

 「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:9-13)

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 ヨハネ福音書の冒頭より。
 イエスという「まことの光」が来られることについて。

 この光は、「すべての人を照らす」。
 イエス(キリスト)という単語を知らない日本人は、まずいないだろう。
 だが、受け入れられてない。
 ほぼ全く、受け入れられない。
 私は個人的に、このことをごく自然なことと思っている。
 ごく一部の「人々」しか、「光」を受け入れることができない。
 闇は光を嫌うからだ。
 それでも光は今もってなお射て込み続けている。
 「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)とあるとおりだ。

 照らされた光を受け入れることのできる人々というのは、そうであってもアダムの肉を持った人間であり続けることは変わりがない。
 だから「神の子とされる」(してもらえる)のであって、現時点で「神の子」なのではない。
(新共同訳では「神の子となる資格」と訳出されている。)
 しかし「特権」であることには、変わりない。
 アダムの肉を持っていてもいい、罪赦された、そう信じることのできるというのは、やはり大きな特権だ。

 「光」は、この特権を与えるがために闇の中に射て込んだ。
 人がその光を受け入れることが叶ったのは、血縁によるのではない。
 生理的欲求によるのでも、また受け入れようと願って受け入れたわけでも、ない。
 「ただ、神によって生まれた」。
 光を受け入れるということについて、主権はどこまでも神の側にある。
 人間の側には主権は全くない。
 だから努力の類は全く意味がない。
 「ただ恵みによる」のであるが、この言葉は見方によっては残酷な宣告だ。

 例えば私は8年前にはじめて、教会というところへ行った。
 それは、さわやかな日本晴れで気分が良かったからではない。
 悩み苦しみが多かったからだ。
 要するに、全くもって自分のご都合のために門を叩いた。
 闇の中に光が射て込んでいてこそ、教会へ行くという選択肢が浮上する。
 ただ、主権は自分にあった。
 ずっと自分にあった。
 聖書は、この主権を神に渡すことを要求する。
 それは、まさに「生まれた」という形容にふさわしい過程だ。

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