羊の門

 「そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。」(ヨハネ10:7-14)

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 「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています」。

 イエスは予めご存じであったし、その者がそのことを明確に気付く時、つまりイエスを知る時というのも、やがて来る。
(「イエスを知る」というタイトルで、こちらに書いた。ただ、書くことがとても難しいことがらだと思う。)

 彼は羊の門をくぐり抜けた人だ。
 どこにあるのかも分からない、小さくそして狭い門。
 本質的に「羊」だけが通ることができる。
 「狼」に門は分からず、この「狼」は強盗とグルになって囲いの外から荒らしに掛かる。
 囲いの中には、ただひとりの牧者イエスがおられる。
 「羊」はここで、「いのち」を得る。
 そのためにこそ、イエスはこの世に来られた。

 多くの者がこの羊の門を目指すのだが、探し出すのはまれだろう。
(「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」マタイ7:14)
 それでもなお、見いだす者ははっきりと見いだす。

 羊の門は、ミカンの果汁で書いたあぶり出しの文字のようなものだ。
 火に当たるまでは全く見えないので、どれだけ探しても見あたらない。
 ところが誰かが火を当てると、え、こんな身近なところに? というような所に「羊の門」と浮かび上がってくる。だから、そこをくぐればよい。
 火を当てるのは、イエスだ。
 だから、「火を当ててください」と祈るのである。

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