イエスが与える水

 「イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:10-14)

---

 さくじつ私は、NHKラジオ第一で川柳を聴いていた。
 すると、こういう投句があって、聴いて急いで書き留めた。

 「浴びるほど 飲んで渇きが 消えますか」

 「渇く」、「坂」という2つのお題に対してたくさん寄せられた中の一句なのだが、「心の渇き」に言及する句が、驚くほどたくさんあった。

 上の聖書箇所に出てくるサマリア人の女も、その一人だ。
 上の引用聖句中には出てこないが、5人の男と結婚しては離婚を繰り返し、今は6人目と同棲中、つまり、どの男にも満足できない。
 というと順序は逆で、心に大きな乾きが広く横たわっており、このサマリア人の女は「男」で乾きを満たそうとするが、(あたりまえだが)誰一人として、この乾きを満たしてくれない。
(間違いなく、5人の男は自分から逃げ出したことだろう。)
 今、この女はイエスと共に井戸の前にいる。
 この井戸の深さ、底なしさは、彼女の果てのない乾きを象徴しているかのようだ。
 そして今、この深い井戸から水をくんで、いっときの喉の渇きを癒すことすら、かなわない。
(なぜ女は、水をくみに来たにもかかわらず水をくむ道具すら持っていないのだろう?)
 イエスはそれでも、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」と仰る。
 「浴びるほど 飲んで乾きが 消えますか」と詠んだ人が、今の世にもいる。
 普遍的なテーゼなのだ。

 イエスは仰る。
 「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」。

 イエスはただで、この水(生ける水)を与えてくださる。
 では、「その人のうちで泉とな」るというその水を、どのようにすれば飲むことができるのだろうか。
 「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら」。

 神の賜物(神が下さるということ)を知ること。
 そして、イエスを知ること。この2点だ。
 というより、神が下さらない限りは、イエスを知ることはできない。
 だが神は、それを多くの人に与えたがっておられる。
 生ける水を得る道筋まで、神は(モーセではなく)イエスを通して示された。
 十字架の道だ。
 苦しみ、死に、そしてよみがえる。
 よみがえって「いのち」を得る。
 泉から水がとめどもなく湧き出る。
 渇くことは、だからない。
(苦しみがなくなるというのは全くの誤りで、心の潤いが全然違うということだと思う。)

 このイエスを知りイエスが与えてくださる水を飲むと、「浴びるほど 飲んで乾きが 消えますか」という発想自体がもう思い浮かばなくなる。もちろん、浴びるほど飲むということ自体が、ない。

---
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 『姦淫しては... 助け主 »