一切の了解

 「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。
 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16:22-24)

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 引き続き、十字架に架かる直前でのイエスの説教から。
 さくじつは、復活のイエスは彼に会ってくださって、その彼に大きな喜びが訪れる旨を書いた。

 「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません」。
 十字架前のイエスの説教を聴いている弟子たちは、今、分かっていない。
 だから、尋ねたくてうずうずしている(参/ヨハネ16:17-18)。
 だが、復活のイエスが会ってくださる「その日」、会ってくださった復活のイエスを見て一切を了解できる。
 もう尋ねたいことは何も残っておらず、それも大きな喜びだ。

 この喜びを満たすために、イエスは勧める。
 「求めよ」と。
 この喜びは、世の喜びとは全く異なる。
 だから彼はこの世にあって必要なものを何でも父に求めるのだが、「この喜び」のためなので、おのずと求めるものは定まってくる。

 イエスが今も生きておられるということを信じ切る人々の幸いである。

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