リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

歴史的状況の社会学的次元

2020-11-28 11:42:25 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。北のほうは雪とのこと、もう冬ですね。東京地方は暖かですが風が強くてサッシを締め切りです。
 当方、一時の自律神経失調は影をひそめましたが、人と会わない時間が累積して楽しい気分は遠いです。
 ところでふと思うに、リモート会議って無防備過ぎない? いくらでも盗聴録音できちゃうじゃない。私など勤めてたころの小会議って、誰にも聞かせちゃいけないものばかりだったけど。会議録ができるような大きな会議ならどうせよそゆきだからいいけどね。と新聞のマンガを見てて思いました。盗聴者に強請(ゆす)られそうだ。
 
 さて、ニュースは、頭に引っかかりません。低反応体勢。うつじゃないからいいや。
 そういえば菅がよく「なんとしても」と言うことに気づきました。秋田弁ですよね。アベの日本語用法でもない「しっかり」には往生しましたが、こちらは流行るといい。

 一昨日のgooブログで、
「古井戸と泉谷しげるが中学校に(1972年)2020-11-23 」
というのがありました。日付が違うのはなぜなのか。ともかく
「体育館で開催された卒業生の送別会「フォークを聞く会」 出演者は、3組。
・古井戸(加奈崎芳太郎と仲井戸麗市)
・泉谷しげる
・小野和子」
 とあるのに小野和子は文中でも完璧に無視。あんまりじゃねえの。古井戸なんぞよりよっぽどよい。
「帰らない人」、小野和子です。
と思って今のyoutube見たら、曲は違うわ、歌詞も微妙に違うわ。なぜ?
 私だって60年前は若草幼稚園童謡合唱団員だからそうそう素人というわけでもない(?)。もっとも歌詞はあてにならないけど。
 人も歌も変わるのかね。
 
 今日はオタク話なので、その前に一部の人に役に立つ情報。
 資源に敏感な読者諸氏は、ひき肉こねると指がベタベタするでしょ。(手袋使い捨てる人はパス。)とくに合い挽きのハンバーグ。料理してるときにバタベタじゃ困っちゃうのでは? そんな時にはビオレu「キッチンハンドジェルソープ」。一発でお肌すべすべ。ま、わたしゃ2回洗うけど。
 コロナで春以降売ってなかったのを先週ドラッグで発見しました。まだの方はお薦めです。
 
 本題のとっかかりは、昔の農村の司法状況調べに借りた、黒田基樹「戦国大名」。
 大名の消費資料を作っているんだから「大名が支配下の村に対して、一方的、容赦のない収奪を行うなどいうことは、ありえないことがわかる。」p20 だと。
 1965年生まれ。ほんとに高度成長世代というやつは。「容赦がある」という実態さえわかっていないくせに。しかも村が武力を持つ戦国時代に。
 本としては、村井良介「戦国大名論」1974生、こっちのほうがずいぶんましですが、それは本題ではなく、今日の本題は、この研究者の主観性。つまりはこういう研究者の自称「合理的な」理論では何もわかりはしない。
 ま、それはいいんだ、理論家をバカにしていればよい。この事態がまずいのは、すべての人々はこうした「理論構成」によって生きている、というところで。もちろん、人々が理論化するわけじゃないけどね。おかげで研究者が往生する。

 前回、社会学が下位の領域に収まろうとすると、がぜん心理学になって虚しい、まだしも早く上位体系との連関を提示する作業に移りたい、それならせめて哲学になれる、とこぼしたところ。これを展開します。
 社会科学のうち、下位体系を主要フィールドとする社会学は、それゆえに当然、行為者というレベルで人間を捕まえざるを得ません。このため周囲には「常識の学」だの「体制学」だのと指摘されますが、けっしてそれだけが社会学の姿ではありません。科学たる社会学も存在しうるのですが、あにはからんや、当の社会学者にはそんな認識はありません。したがって若い方々が人間の学を志向して勉強するときには、この姿からは脱出すべく主体的に努力する必要があります。

 つまり、まず、人は社会事象と自分の現在「生きている」環境との間に自分を入れることで、その社会事象に「関」心を持ちます。これは文字通りで、英語でも「inter」estともいいます。これは当たり前のことではあります。
 さてでは、ここで社会事象とは何か。
 こうした行為主体の行為に焦点が当たっている場面では、社会事象は実体ではなく観念です。ところでその次元からもう一段下がれば、それは観念一般ではなく、第1に、言語情報その他から構成された観念であるか、第2に、観念から抽象された要素、そこに記憶が直結する要素なのです。そしてここで行為者にとって行為主体たる意義を持つのは、過去の記憶に直結する抽象なのです。過去の、自分の身体を揺るがした記憶です。(構成された観念に行為主体上の意義を持つのは、その構成観念によっていくばくかの実体的過程を経た結果であり、それも特殊な人生ではありうることですが、ここでは特殊ケースとします。)
 では記憶の実態はなにか。これはそうそういくつもあるものではありません。日本語でいう「喜怒哀楽」です。
 この記憶と結びついた、したがってホルモン分泌と結びついた抽象によって、人間には、まず「発言意欲」が出現するのです。
 といってもその喜怒哀楽が行動の起動因になると言っているわけではありません。だから心理学は虚しい。喜怒哀楽はその当人によって、自分が持つ倫理なり未分化の社会道徳と結合して、持続的な意志に育て上げられるわけです。そんなことは現実通りで、わざわざその「真偽」を云々するまでもない。ただしそのため、その構成作業は「自由」ではありません。

 さて、社会事象観念と、自己の記憶との間の抽象過程には、歴史的状況というものがはいるのです。
 つまり何によれば行為者の喜怒哀楽を引き出せるのか。
 この行為者は行為者一般ではなく、歴史的に規定された行為者であり、歴史はこの行為者に、彼の喜怒哀楽を引き出す抽象を、あらゆるところから醸出させるのです。
 この歴史と行為の喜怒哀楽との関係が「哲学」論議だ、といっております。なかなか社会科学には到達しませんがしょうがない。このしょうがない困難な立ち位置に、社会学徒は、本来は居るのです。
 もちろん、しかし、発言意欲自体は基礎要素に過ぎません。現実の行為は、つまり、発言という表明行動は、それ自体において、規制と推進の要素の対象となりますが、これは今の本題ではない上に、「次の次の」課題です。「次の」課題は、じゃあ、歴史的状況と主観を統合させる過程は何か、ということになるわけです。これが当面の社会学です。

 (解説は次回)

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