リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

歴史的状況と社会学書的次元(その2)

2020-11-28 20:51:45 | 社会学の基礎概念
 こんばんは。明日にしようかと思いましたが、誰にでも明日が来るとは限らないと思い、前置きなしの今日の続き。
 先に言った、自分の記憶にフィットする抽象というのは実用的に展開しなければいけませんが、今日はおいて、基本の筋だけ、続き的解説。
 
 繰り返しますと、社会学者が書く論は、自分が行為者として自分の記憶でフィットした抽象の再現です。この再現により社会学者は「問題」を提示する、と自分では思っていますが、それはあるべき姿ではない。それはただの現実の縮小再生産です。もちろん現実の登場人物は、それよりも豊かな情報を、自分の人生の中に保持しているものです。
 実証社会学者の清く正しい心を知っている私にはとても心苦しいことですが、しかし、そうではない。それは正しい実証学ですが、人間が次の瞬間に使える因果連関はどこにも表示していない。

 といえば基本は提示済みであることはわかっていただけるかと思います。
 まず、この特定の社会学書では読者が良心的社会学者と同じ感性を持つことが前提ですが、世の中はそうではない。山のようなストレス・ウヨや、山のような資本主義者たちがいる。この書で研究者が安易に出した清い答えには自己内省がない、はっきり言ってしまえば、社会の道徳に寄りかかっているのです。
 すなわち、第1に、どの点でそんな結論が出たか、その前提の喜怒哀楽と倫理ないし社会道徳のありかが、忘失されている。
 ついで第2に、その内省の中で、時代の矛盾的正しさが浮き上がる。この場合は正しさですが、もちろんテーマによっては悪であり、少数の場合にはいたしかたのない痛さであったり、です。
 本来であれば、その悪や痛さを感じない研究者とその同類にとって、いったい自分たち社会学者が、あるいは彼ら資本主義者が、どのような社会状態にあるのか、その哲学的考察がそれぞれについてなされるでしょう。ここでこれが哲学なのは、もともとが「心理洞察」であり、そのうえその理由が、社会学者の知らない具体的歴史的過程からなされるからです。これは残念ながら科学的実証の過程にはない。
 じゃあ何が科学たる社会学だというのか、ということになります。
 それが、歴史的状況と主観を統合させる過程、つまり、状況と主観を組にした抽象的立言です。
 抽象的立言は、常にそれを適用せんとする行為者の行為によって、実証にさらされます。行為理論家隈が常に言うように、行為理論は決して理論家の宣言で完結するものではない。人々はまず全員が異なる。にもかかわらず、行為の原理と原則という明示された基準によって書かれた立言は、彫琢(ちょうたく)され、時代とともに真理へ近づいていく、あるいは、最低、真理部分と特殊歴史的部分とが分離明確化されていくのです。
 
 でね、記事が二つ重なると、どう検索されるのかねえ、、

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