こんばんは。涼しくなって助かります。
さて、本日は理屈の話。少々複雑ですので、先に構成をいっておきましょう。
とある論文につきまして
1 (アフリカの女性解放のための)先進国イデオロギーは、(とりあえず表出者の意図を問わず)後進国支配のイデオロギーとして機能した。
2 と、指摘するのは、「イデオロギー」とはもともとそういう性格のものだから正しいのだが、だからといって、歴史的にそれが反人民イデオロギーになるわけではない、というよりは、理論上、それは強力な自由の武器になる、という趣旨です。
対象の筋をかいつまんでいいますと、女性割礼について、植民地主義者は、「文明化」の名のもとにこれを廃止しようとする。一方、抑圧下の女性にとって、こういう言説に乗れば、男との交渉権も妻たる生存手段も失われてしまう。だいたい、白人の反対運動に加担すること自体、地元の生活への裏切りで、逆に、割礼が反植民地主義の象徴にもなる。
かくて、割礼反対運動は、遅々としても地元女性民のみの仕事でなければならない。
みたいな展開です。
というのは、隈の昔の知人の学術論文。 この人は社会学者ではない、ただの女性学学者ですが。
しかし、運動とはそういうものではない。
権力を握った者の行動を翻すには、その者の生理性を脅かすか、賞賛と優越をくすぐるか、それよりも強い権力で圧倒するか、しかない。
これは、部分的な女性解放運動であれば
1 女性の武力で、権力者の日常を脅かすか
2 当該共同体に、部分的な(解放へ繋がる)女性寄与行動に賞賛を与えるか(たとえば、「皇后陛下」が賛同した)
3 他の強力武力が、当該権力者を脅すか
4 あるいはその運動が、本質的には権力者の自由をも増大させるものか
のいずれかに該当するしかない。
当該システム内部で少数の女性がうごめいたとて、そんなものはなんの力にもならない。
女性の3割が動けば強大な力だが、そんな状況は、危うくなった現在の体制を守る方向でしか表れはしない。過去日本では、戦争へ向かうため、男どもを戦地に追いやる場面にしか発揮されなかった。いや、これは結果論ではなく、男も女も、国家権力の賞賛によだれを垂らした、という事実を言っているだけですが。
日本の女性解放運動が多大な成果を上げたのは、それが既にシステムで保証された賞賛と優越を、遅れた現実に適用していったものだからにすぎない。
ご存知の方は多いように、1970年前までの日本にさえ、糾弾されて十分な女性差別がありました。そんなことは社会学類書にまかせますのでいいませんが。 いわんや、戦前おや。
そんな日本のどうしようもない差別待遇を前進させたのは、団結を誇った女性集団ではなく、理想に燃えた欧米近代主義者のアメリカ民主思想集団です。 もちろん彼らはただのイデオローグで、実は日本をアメリカの都合の良いように変えようとしただけですが。ともかくも、アメリカの武力下で、各種の「法」が作成された。
もちろん、ほおっておいても日本資本主義の進展は、いつか、各種自由を獲得させたでしょうけれど。「それはいつか」。いつでしょうねえ、、、
というわけで、女性学というのは現実学なのだな、という感想です。
この筆者は左翼ですので解放を一歩でも推し進めようとしていると思いますが、そうなると、現実の生きている現地女性の次の一歩を語るしかない。そうなると「そんなことをいったって」ということになる。
それはそうなんだろうとは思いますが、それを影響力のある他国家の人民が理論的な結語とするのは、それは少々違うでしょう、ということです。
結語はいわないのがいい、というのが私の考えですが、他方、当該人民の立場にたつか、他国家人民の立場にたつか、ということは「立ち位置」として、第三者にとっては選択問題ではあります。 どちらが誠実か、とか、どちらが無責任か、とか。 まあ、この筆者には現地にお友達がいそうですので第三者問題ではないのでしょうが。
(P.S.
国外勢力の脅しと殺しは、まったく違います。
生活共同体では、権力の行方は、その原因はなんであろうと、システムの内部で処理するか、または共同性の内部で処理するかしなければ、生活が、人々の生きる正の感情が、生きる全てが、崩壊します。そう書けばそのまんまですが。
単純なんですけどね、右翼には分からないし、資本主義者、要するに侵略者は分からない振りをする。
念のため。)
さて、本日は理屈の話。少々複雑ですので、先に構成をいっておきましょう。
とある論文につきまして
1 (アフリカの女性解放のための)先進国イデオロギーは、(とりあえず表出者の意図を問わず)後進国支配のイデオロギーとして機能した。
2 と、指摘するのは、「イデオロギー」とはもともとそういう性格のものだから正しいのだが、だからといって、歴史的にそれが反人民イデオロギーになるわけではない、というよりは、理論上、それは強力な自由の武器になる、という趣旨です。
対象の筋をかいつまんでいいますと、女性割礼について、植民地主義者は、「文明化」の名のもとにこれを廃止しようとする。一方、抑圧下の女性にとって、こういう言説に乗れば、男との交渉権も妻たる生存手段も失われてしまう。だいたい、白人の反対運動に加担すること自体、地元の生活への裏切りで、逆に、割礼が反植民地主義の象徴にもなる。
かくて、割礼反対運動は、遅々としても地元女性民のみの仕事でなければならない。
みたいな展開です。
というのは、隈の昔の知人の学術論文。 この人は社会学者ではない、ただの女性学学者ですが。
しかし、運動とはそういうものではない。
権力を握った者の行動を翻すには、その者の生理性を脅かすか、賞賛と優越をくすぐるか、それよりも強い権力で圧倒するか、しかない。
これは、部分的な女性解放運動であれば
1 女性の武力で、権力者の日常を脅かすか
2 当該共同体に、部分的な(解放へ繋がる)女性寄与行動に賞賛を与えるか(たとえば、「皇后陛下」が賛同した)
3 他の強力武力が、当該権力者を脅すか
4 あるいはその運動が、本質的には権力者の自由をも増大させるものか
のいずれかに該当するしかない。
当該システム内部で少数の女性がうごめいたとて、そんなものはなんの力にもならない。
女性の3割が動けば強大な力だが、そんな状況は、危うくなった現在の体制を守る方向でしか表れはしない。過去日本では、戦争へ向かうため、男どもを戦地に追いやる場面にしか発揮されなかった。いや、これは結果論ではなく、男も女も、国家権力の賞賛によだれを垂らした、という事実を言っているだけですが。
日本の女性解放運動が多大な成果を上げたのは、それが既にシステムで保証された賞賛と優越を、遅れた現実に適用していったものだからにすぎない。
ご存知の方は多いように、1970年前までの日本にさえ、糾弾されて十分な女性差別がありました。そんなことは社会学類書にまかせますのでいいませんが。 いわんや、戦前おや。
そんな日本のどうしようもない差別待遇を前進させたのは、団結を誇った女性集団ではなく、理想に燃えた欧米近代主義者のアメリカ民主思想集団です。 もちろん彼らはただのイデオローグで、実は日本をアメリカの都合の良いように変えようとしただけですが。ともかくも、アメリカの武力下で、各種の「法」が作成された。
もちろん、ほおっておいても日本資本主義の進展は、いつか、各種自由を獲得させたでしょうけれど。「それはいつか」。いつでしょうねえ、、、
というわけで、女性学というのは現実学なのだな、という感想です。
この筆者は左翼ですので解放を一歩でも推し進めようとしていると思いますが、そうなると、現実の生きている現地女性の次の一歩を語るしかない。そうなると「そんなことをいったって」ということになる。
それはそうなんだろうとは思いますが、それを影響力のある他国家の人民が理論的な結語とするのは、それは少々違うでしょう、ということです。
結語はいわないのがいい、というのが私の考えですが、他方、当該人民の立場にたつか、他国家人民の立場にたつか、ということは「立ち位置」として、第三者にとっては選択問題ではあります。 どちらが誠実か、とか、どちらが無責任か、とか。 まあ、この筆者には現地にお友達がいそうですので第三者問題ではないのでしょうが。
(P.S.
国外勢力の脅しと殺しは、まったく違います。
生活共同体では、権力の行方は、その原因はなんであろうと、システムの内部で処理するか、または共同性の内部で処理するかしなければ、生活が、人々の生きる正の感情が、生きる全てが、崩壊します。そう書けばそのまんまですが。
単純なんですけどね、右翼には分からないし、資本主義者、要するに侵略者は分からない振りをする。
念のため。)
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