リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

主体性の原型(元)

2019-11-30 20:47:56 | 歴史への視角
 こんばんは。東京地方は晴れですが、風が強くて正月よりも寒い。明日から12月ですが、今年の晩秋は日本中天気が悪かったらしく、いったいいつ紅葉が見頃だったのか不明。今日は日中、駒沢公園あたりをうろついてましたが、紅い葉はなかったのは残念。でも師走を控えてか、あちこちずいぶんの人出でした。

 さて、世間話、
 「白浜町のアドベンチャーワールドで飼育されているジャイアントパンダの「彩浜」が28日、屋外運動場にデビューしました。」(テレビ和歌山。
 1歳3ヶ月だって。シャンシャンちゃんよりちょっと落ちるけど可愛いね。
 それに比べてびっくりなのがアメリカから中国へ送還のパンダ(ベイベイ氏)、「人気者にお別れの日 米のパンダ 中国返還へ」(FNN.11.20)。まるっきりあの可愛くない映画「カンフー・パンダ」そのままのお顔じゃないか。4歳だって、歳のせいなのか食べ物のせいなのか飼育員の心のせいなのか。
 
 ここんとこサザエさんの歳が(加藤みどり)80歳と聞いて驚いたところ、(マスオさんは、声が変、と思っているうちに(ときどき見るの。)声優が代わってしまった。83歳)ルパン三世は「カリオストロの城」の頃の人はもう誰も残ってないんだって。大好きなのに、声が違うと見る気がしない、、って話が長すぎてもたないだけだけど。なんでも今の若人も長い映画はもたなくて、映画見ながらスマホいじってるんだって? 私も若い。
  
 「政府、、は29日、ウェブの閲覧履歴がたまる「Cookie(クッキー)」と呼ばれるデータについて、第三者に提供すると利用者個人が特定される場合には、利用者の同意を取ることを提供者に義務づける方針を明らかにした。」(朝日)
 といっても、同意しますか? と尋かれればふつう、「うん」というしかないけどね。
 わたしなど政治団体はぜんぜん信用していないので、ネットニュースを見に行くのにもクッキーはブロックしていくのだけれど、最近C派に逆ブロックされてた?のが以下。今見れるけど。みなさまもお気をつけ。まあいいけど。
 「変形労働時間制は、、、労働者の健康と生活を守るために、対象者や対象期間、労働日ごとの労働時間を労使協定で締結することが導入に際して義務付けられている。」「ところが今回、労使協定もなしに自治体の条例で教員に導入するというのだ。労使協定は当該労働者との同意を必要とするが、条例での導入はこれを必要としない。労使対等を原則とする労基法を踏みにじるものだ。」
 おっしゃるとおり、法理論上、こういうことをしちゃいけないのだよ。代替制度がないからね。基本の基の字。今の東大じゃあそんなことも習わないのかねえ。
  
 「兵庫県尼崎市の路上で27日夕、指定暴力団神戸山口組の古川恵一幹部(59)=尼崎市=が射殺」「現場から発砲後の空の薬きょう15発と、不発だった実弾13発が見つかった」(神戸新聞)
 自動小銃だってさ。威力の強いマシンガンのことね。こんなのが一般人に手に入るようじゃ、時代が変わるね、半分不発というのは密造かもしれないが。政府は自衛官要員をもっと欲しいようだから、貧しい人民は徴兵されて、自動小銃に慣れた革命部隊は銃撃戦も辞さず、か。資本家もアベには気をつけたほうがよいぜ、必ずしも味方ではないぞ。
 それにしてもそんなもんの撃ち方、どこで練習したのかね。韓国かな。そのうち横浜IRでも射撃ができるようになるだろうね。もうカネのためにはやりたい放題だね。 

 というわけで本題。
 最近知ったこと。迷信って、その人の生活が怖いからその怖さを薄めるために主体的に作るんだって。
 といっても意味不明。
 神の祟りというのは、せめて、祟る行動を明確に決めて、しかし、そのタブーさえこなせば、あとの日常は神様が助けてくれる、という積極的な救いのストーリーだ、という趣旨。
 だからして、祟りのある生活というのは、なんら近代人に劣った精神の産物ではなく、やむにやまれぬ合理的精神の発露である、と。この迷信を取り払うのは近代的精神ではなく、恐怖することなく今日も明日も暮らせる生活だ、と。
 知ってた?
 たとえば平安貴族は、カロリー量しか取り柄のないアルファ化米と乾物の防災備蓄食料のような食生活と、道端に放置された貧しい人民の屍体に囲まれた生活で、30、40までしか生きない明日のない生活に恐怖する。そこで迷信でもそれを定めて、そのタブーを避けるようにするしか運命と折り合いをつける道はない。
 たとえばロシア農奴は、寒さと飢えの中でしかし、やはり生活は続いていく。暗い冬の夜の魑魅魍魎は神父しか助けてくれない。だからせめて神父の言うことは聞く。
 たとえば炭鉱労働者は、暗闇の中で1秒後に起こるかもしれない落盤を逃れるすべはない、できることはヤマの神を怒らせないから、と決めたことだけだ。
 これはさ、十分に主体的な行為だと思ったことです。誰も批判を言う権利はない。生活に恐怖のある間は。
 さて、だから、というわけです。
 じゃあ、平安貴族は、あるいはなんだらかんだらは、すべて主体的な人間なのか、といわれるとそうではありません。主体的行動とは、それをやりだした人間、それを助けた人間、この人たちに係ることなのです、あとは乗っかっているだけ。社会事象は常に、主体的な人間によって創造され、それが必要な人間によって維持される。この必要は、もちろん環境的要因によって生まれ、これと人間行為の原理と原則が交差したときに、主体的な行動が発現する。
 さて、ついで、この過去主体的であった行動の維持は、新しい環境の必要の下で、しかしそのままでは変化はしない。新しい主体的な行動によってのみ変化の契機が発動し、これに、生活の恐怖ではなく(生活の恐怖は運動を作れはしない。それは生理性の原則に反する。)、賞賛と優越に乗った人間によって運動化され、その結果過去の行為慣習は捨て去られる。
 これがプロトタイプの主体的行為の全容です。
  
 というわけで、最近初めの一歩を教わった人だけ書いておきましょう。森崎和江「奈落の神々 炭鉱労働精神史」。何ページだよとか言われると困りますね。こういうのは読解力だから。
   
 次回論究、ようやく構成もできて、ここんとこの最後に近い迷いが、例によって、どこまで悪口を少なくするか。そもそもマルクス経済学の批判が発端なのだから全文批判で出来ているようなものなのだけれど、ご存知のようにどうも人をばかにするくせがあって、批判というよりは全文悪口。悪口を消すと中身も消えるという。例回は軽いイヤミに直して上程してるのだけれど、最近はそんなに殊勝な心になれるほどいいこともなくて。
 
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