リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

人の特定の対応への不思議 (C.TIME1)

2009-05-16 21:43:43 | コーヒーブレイク
 本日のコーヒーブレイクその1で。
 以下は社会科学とは何の関係もない心理学的四方山話ですが

 土日休みということでネット遊びに明け暮れた本日、
 私の趣味の将棋界で、数年前からいざこざが続いておりまして、将棋界組織のボスに米長邦雄という人物が座りましたが、これが性の悪い人物で、元はそこそこ将棋のできる人間だったのですが、もう引退して将棋で発散することもないものだから、端からいざこざを起こしてその争いを生きがいにしている。なんといっても性の悪い人物ですから人の善意につけこんで将棋界にお金を落とす算段はうまいので(そんな費用はスポンサー金で、要するに寄付金ですからね、誰も困りはしません)非難するところはないのですが、周囲の人間はたまらない。人の団体でどうでもいいのですが。

 さてこいつに対応する人間のカテゴリーがありまして
 不思議と2通りに分かれる。
・ 主体的な人間
・ 自由な人間
 は、こんなやつ嫌いだ、早く逝んじまえ
 と思っている。
 一方
・ 真面目一方の人間
・ もちろん権力が好きな人間
 は、さんざんお世話になっている米長様に歯向かうなんて罰当たりだ、なにを子供のような
 と思っている。

 こう、きっぱり分かれる世界というのもシンプルでよいですね。

 で、私は、最初のカテゴリーに入らないやつは、いくら天才でも嫌いなのはお察しのとおりです。
 私の好きな谷川も真面目だから後者なんですよね。「これが将棋界のためなら」、みたいなもんでしょ。
 だから付き合いたくない。だから、というよりは、初めからそうなんですよね。

 人間の性格論に過ぎませんが。
    (しかし、汚ならしいヤツだ。
       なお、経緯を知りながら「何が?」、と聞くのは、ただの子供)

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