リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

個人倫理学

2024-08-24 21:00:12 | 賃金・価値・権力
 こんばんは、またお会いしました。
 今日の先のアップロードが内容薄いせいというわけでもなくて、まあ本論は下記。
 こりゃ視点が違うから分かりにくい、今日はやめて、まずは端っこをメモしたから、これをふくらましてどお~んと出せばちょっとユニークだぞ、と思ってましたところ、今日ミュージックフェアのアルフィーをみて、なんだ、われわれに共通のテーマだったか(もったいぶることもない)、ということが思い浮かんで。まあ同じ世代で。
 結局大したことじゃないんだけど、しかし、誰も口にできない、その「哲学的」根拠を与えればいいし、与えなければならない、というわけで。

 元はといえば、稲葉振一郎「社会倫理学講義」。
 稲葉という人は発想が一緒なので稲葉三千男(という社会評論学者)の子供かと思って昔一旦注目したので知ってましたが、まあ、そんなもん(以下)。ただの道徳論じゃん。そこまでひどいとは想定外。
 
 彼氏曰く”「社会倫理学」の「社会」なんてとっちゃっていい”。
 馬鹿あいっちゃあいけないよ。てめえの都合で言葉を変えるな。
 彼の発言はすべての倫理学の伝統を引いて、体制内道徳学です、教授だから生きていかなければいけない。社会体制内の、そこで自分だけが何とかイニシャ(イニシャティブ)を取ろうという、体制内闘争。闘争といえば聞こえがいいな、評論。
 ここでさ、いままでの当ブログの相手は死んだ人(の弟子)とか痴呆症の人(の弟子)とかで、書くほうも躊躇するものですが彼氏はだいじょぶ、元気。
 
 さて、社会道徳などどう引っくり返したって「真理性」根拠などありえない。あるのは「正当性」の根拠だけです。この根拠は簡単。今の世のなかではこれが大事といえばよい。しかし残念ながらそこに優劣はつかない。「政治学的」評論闘争が生ずるだけです。そんなもん、2分考えるまでもない。
 
 しかし、モラルには、道徳には、倫理には、それ自体で正当性の根拠が生ずる。「私」です。「行為主体」です。「行為主体の行為」です。
 何でそこそこいい年の人間がそこまで思いつかないかなあ、、、
 でもわかってます。70年闘争で箸にも棒にもかからなかった10歳下。何十年経ってもしょうがない。もうろくしてもアルフィーのほうがまし。アルフィーには自分のモラルがある。いや、われわれの世代には自分各々のモラルがある。何が社会倫理学か。

 モラル、道徳、倫理。
 それは、人間の自己の形成結果です。それゆえにこそそれは諸個人内に普遍的に存在しうるのです。といってもその内容が普遍的なわけではありません。それは行為主体それぞれに属する事項です。ただ単に、それが行為主体に普遍的に属し、自己の行為において守らなければならない、という点で、存在として普遍的なのです。 
 自己の形成とは行為主体の自由の形成であり、自己権力の源泉です。だから、人間Aの自己の生存のために、モラルが必要なのです。道徳でなくて悪かったね。しかしそれは道徳なんぞを越えて、人間の次の一歩を規定するのです。
 じゃ、道徳とほとんど変わらなく響く?
 ちがいます。それは人間の次の一歩、すなわち一歩の連続である行為主体の死ぬまでの人生を、形作るしかないものなのです。それが人間Aの人生なのです。

 で、これは行為全てに当てはまるものなので、ここでついでにいいましょう。
 疎外。
 それは、自己の形成への阻害です。この視点からいって、疎外とは自己の自由の欠落なのです。それは行為主体にとっては「反モラル」です。「だから」その状況は排さなければならないのです。「ならない」といってもそれは自己に対する「当為」ではない。社会に要求する「社会がなすべき当為」なのです。
 
 以下、すべて。
 次回作すべてについて描けば、さすがにどんな人間だって分かると思って。
 何が分かるって?
 ウクライナの、ロシアの、ハマスの、イスラエルの、人民の悲劇です。
    上記、順番にご注意。
 
 わたしはアナーキストですから、最良のマルキストの友だちです。
    、、、最良? ふん、そんなやつら、どこにいるんだ。
 
 
 
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