リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「経済学」上の「現状分析」とは何か(その2)

2018-08-10 15:31:40 | 社会学の基礎概念
 で、今日の続き、(その2)です。
 
 もともと現状分析という言葉は「前衛のための」現状分析であったわけで、宇野弘蔵も、無論、そのつもりで立てたのが三段階論です。つまり、その昔の「前衛」が、「資本論に窮乏化すると書いてある、今の低賃金が資本論そのままの事態だ」とか、「資本論に恐慌が資本主義をつぶすと書いてある、この現在の恐慌こそ最後的状況だ」といった話をするので、そんなことはくだらないから止めようという話です。動機自体くだらないですが、その頃はそんな低次元の提議も(宇野の)勇気ある独創性に支えられなければしゃべれない、という、半封建的な言論状況だったわけです。こういう連中が自己の立ち位置の反省もなく、「戦前の半封建遺制を廃棄しよう」などと音頭を取ろうとしたのですから、人間存在の悲哀ですな。
 ま、ともかく現状分析は、前衛が革命運動を実践する際に資本主義をどう把握すべきか、といういたって非科学的な用途に供せられるものだったわけで、なにが科学か、てなもんです。

 でもついでに一つ教えてあげましょう。そんな政治的な現状分析論議でも、科学たりうる性質がある。人間の行為ですからね。これは社会学が教えてあげられる。前衛が欲するべきいわゆるところの現状分析とは、思想状況の確定なのです。科学的にいえば、賞賛と優越、つまりその発言が誰に褒められるか。あるいはその発言により(たとえば敵対政治勢力のような)誰それよりも優位に立てるか、という問題です。これによって前衛は、何を論題にすればデモ動員数が上がるか、同盟員が増えるか、選挙支持票が増えるか、その他の方針策定ができる。前衛の現状分析とはそもそもそういうものです。たとえば「世界は帝国主義戦争の前夜だ」などというから経済学だと思うでしょうがそれは違う。前衛とはいえバカではない。前夜であってもなくても明日の抗議集会が盛り上がって、自己勢力が増えればそれでいい。そのための「現状分析」発表です。
 経済学じゃ現状分析ができなくて、社会学ならできるのか、って、社会学はあなた、現状分析のための学ですから。社会学はそもそも、現状分析から始まって因果連関の命題を検討、提出後、また現状分析に戻る、という過程を本質とする社会科学だからです。この結果、社会学は状況の規定要因の明確化とその規定要因に対する行為の集積の総合的セットという外見をとります。
 大学の社会学教授の8割は、自分で「社会学は学者の数だけある」などと平気で発言しますが、しょうがない、みんな若いからね、自分でも自分でやってることが分からないのね。

 ま、これは余題。元に戻って、経済学=生産史の話。
 
 今日の前回、(その1)で、「生産史における科学としての現状分析とは、現在が生産史のどこに位置するか、という課題以外には存在できないのである。」といいましたが、その課題としては科学でありうる。方向性としては、岩田弘という宇野経済学の支流の人です。世界資本主義論を強調した人。
 なんとなく隈の問題意識が透けてきた? そうなのね。わたしゃ経済学などどうでもいいし。ま、ともかく。
 8割しか正しくないウィキペディアによると、岩田弘の世界資本主義論は宇野の「三段階
論とほぼ同一の方法論」と書いてありますが、そうでもない。これはさすがに若い頃の栗本慎一郎が正しい。いわく岩田氏のものは「二段階論として「原理論と世界資本主義論」という構造になっている」(ネットにあった栗本の「資本主義経済史の方法と世界資本主義論」)。伊達にセクトのキャップはしていない(過去)。つまり岩田本人としては、世界資本主義の継時的叙述が、そのまま現在的資本主義の分析につながる予定なのです。
 といってもこれは難しい話ではなく、方法論的には前衛的マルクス主義はすべてそういう構成になっている。その最後の分析時点で「資本論にこう書いてある」などと、いつまでも未練がましくマルクス本人にこだわるかどうかの違いだけです。
 岩田弘の優越している点は、この論議が国家を含め、さらに世界を含めた論議になっているところです。まあ結果として正しくはないにせよ、ともかく理論の枠組みはそうでなければならない。

 さて、では、枠組みだけでなぜ本論は正しくないか。もちろん、岩田氏が経済学しか知らないからです。しかし、世界のシステムは経済システムに限らないのです。
 本来あるべき、「現状を分析する経済学」はそうではない。あるいは、経済学が社会科学の帝王になりたければ、そうではない。
 経済学にとって生産史など、すなわち「資本論」など、どうだっていいのです。資本家による収奪が存在していることは誰だって知っている。プルードンまでの経済学前史でもそんなことは学者ならぬ人民にさえ周知の事項だったのです。もちろん、若きエンゲルスには常識です。
 収奪を資本家がどうやってするなどということはどうだっていい。しかも収奪を搾取などとごまかして何か気の聞いたことを言ったかのごとくふんぞり返るなど論外だ。実はそんなものは静的な第三者の学、近代経済学と同じ冷やかしの理論に過ぎない。
 そうではない。アダムスミス以降の経済学に必要なのは、支配への志向性の解明なのです。
 なぜ他人の労働を他人の家族を殺してまで自己の労働にしたいのか。なぜ人間であるはずの支配者たちは、その体制を平気で承認し続けるのか。なぜその体制を血の滴る国家的施策にまで仕立て上げるのか。さらにこの「文明的」現在に至るまでその体制が続いていくのか。
 それを解明するのが本当の疎外された人間の行為論、「経済学批判」です。
 この経済学批判において、学そのものが「現状分析」になる。現在的資本主義の強点も弱点もその内実が赤裸々にされる。
 
 なんのことはない、隈の次回論究であることは御明察のとおり。
 ただ「経済学批判」の題じゃ本を読もうとする人が分からないからね。買ったはいいが、読んでみるとどうみたって社会学的評論。ここがネック。論理がわかんないんじゃしょうがない。噛んで含めても伝わらないものは伝わらないのは、昔このブログで試してみましたし。教授とか職業でやった人は、伝達のキモがわかるんでしょうねえ。教育の素人にとっては、分かることをどう分かりやすく各節のテーマに置くか、という作業になるのですよ。でさ、整理というかウサ晴らしで書きました。
 
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