リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

歴史的主体性への注釈

2011-08-13 16:21:53 | 歴史への視角
 で、これは前の前の続き。
 本日は、4ケ目の記事。
 
 実は来週は夏休みでして、いつもの休日のブログ更新はありませんのでその代わり。

 
 世の中には「歴史的主体性」という単語がありまして。
 ある人間(たち)が持っている歴史を(主体として)形作っていくという資格、
 みたいな意味合いですね。
 「日本臣民は、歴史的主体性を自覚しつつ、大東亜共栄圏を確立する」
 とか
 「労働者は、プロレタリア階級としての歴史的主体性を認識し、革命運動をする」、
 みたいに使いますな。
 
 というわけで、歴史的主体性なるものは、人間の行為として、「まず」存在しない、と観念すべきです。

 (日本臣民やプロレタリアートのようなカテゴリーは、生きている人間の行為とは無関係)
 人は自分がゴーカイジャー(≒ゴレンジャーですな、見てないけど) だったらいいなあ、と想像することはできる。
 しかし、それはなんら自分がゴーカイジャーであることを意味しない。かれは同時に釈迦にでもキリストにでもなることはできる。が、それは誰にとっても現実ではない。

 ついで、左翼である彼は自分がゴーカイジャーだと小学校の校庭で大声で喚くことができる。
 しかし、その喚く行為が、彼に肯定的な結果を引き起こすことのないことを知る。
 来る日も来る日も彼は校庭でわめくが、かれはどんどん疎外されてゆく自分を感ずる。

 歴史的主体性を他人に押し付ける組織の組織構成員とはそういうものです。
 ここで確認するのは、その行為の彼自身にとっての「非成就性」となります。

 これが国家別働隊の大東亜共栄圏思想であれば相手は反抗的な目をしても言うことは聞くので、まあ悪くない気持ちかもしれませんが、どっちの組織でも一般人の感想は同じです。「あいつら疎外されてるなあ」
 キチガイを装わなきゃ人に何もいえないんだな、ってことですね。
 
 
 さてと、じゃあ、「歴史的主体性」とはただのウソか、というと、それはそうではない。
 それは、人が自己の生で形成しつつあるものであり、最後の行為のときに総括される、「人生」の一ではあります。
 それまで疎外されまくった彼は、死に向かって疎外の度を低下させてゆく結果を得ます。

 たとえば、
 人は自分がゴーカイジャーだ、と思って崖から飛び降りる自分を想定し、その自分を行為することができます。
 崖から飛び降りるくらいは普通できるので、彼はそこで自分の主体性を手に入れることはできる。しかし、彼はゴーカイジャーなどではないことは、自分自身で知っている。
 「すごい、彼はゴーカイジャーだ」、という友達の賞賛は、うれしくはあるが、そこでは彼はいまだ主体性を手にいれてはいません。

 しかし、崖から飛び降り、2階から飛び降り、学友の女子生徒を不良から助けつづけるという毎日の行為は、彼に彼の人生を形作らせていきます。
 そして彼は、彼の死の時を迎え、「よし、俺はゴーカイジャーだった」と総括するし、それが可能です。
 
 すなわち、「歴史的主体性」とは、人が主体的に作成しつづけ、彼の人生を一つの行為と見た時に成就するものなのです。
 一つの行為と見るのは観念性ではありますが、それまでの行為の結果のいくつもの賞賛が、これを現実化するのです。
 もっともそこには、マルクス主義の主張するような現実構造の根拠などはありません。
 宗教や国粋主義と同じ、ただの決意の仕業ではあります。
 ありますが、人生を意志をもって形作ることは、宗教がそうであるように、意味のないことではありません。彼にとっては、自分の行為の結果が現実なのです。
 
   ただし、再度言えば、それは唯物論的社会科学とは関係がない、人間の一つの生き方、というものです。ま、それこそ「主義」なんでしょうね。

    というわけで、では、さ来週に。

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