リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

イムジン河

2010-03-15 22:12:07 | 歴史への視角
 こんばんは。今日も寒くて、という言葉に賛同してくれる人は、東京地方じゃいませんよね。
 私の行動実態を知ってる人はなおさらですが、、、ああ寒かった。

 さて、こうゆう理屈こねて生きてる稼業って、どうしても身内攻撃になりやすいんですよね。つぶれちまえばいい自民党でなく社民党の悪口を言ったりね。自民党の悪口なんて、だれでもいえるだろ、私が出る幕じゃない、みたいな感覚で。
 まあ、そのへんは、読む人に大人になってもらって。今日は、反北朝鮮派に大人になってもらいましょう。

 私儀、考えてないときは歌を歌っているというきりぎりす。
 ふと、風呂に入るとき、イムジン河(北朝鮮承認版)が口に出てまして、1、2週前に朝日新聞で書いてましたが、こっちのほうがフォーククルーセダーズ版より明るいんですね。でもフォークル版の方がきれいだったよな、と、松山猛:加藤和彦編曲のイムジン河を口ずさんだところ、もう北朝鮮版は頭に浮かばない。
 おそるべし加藤:松山。てわけでもないけど、やはり日本版のほうが名曲です。

 とはいえ、その頃対抗した北朝鮮版は明るく、、、それにしても一度フォークル版が湧くと、思い出すのが大変だ、えーーと、、、
「風よ、川面をかけてゆけ、春風よ、とどけよ」(南朝鮮にも自由を!)
 とゆうように、北朝鮮民衆も歌えたわけです。

 1957年(というイムジン河・歌曲作成時)、北朝鮮は、そこそこ未来志向で、民衆には理想と自信があった。いまどきの独裁体制でもなく、アメリカ軍と結託して家族類縁を殺した売国奴(韓国のことです)に目に物見せてくれようか、みたいなとこで。
 
 さてと、何をいいたいかというと、上記が本当かどうかは別として、そういう民衆の視点を抜きにして、アナーキストはおしゃべりしてはいけない。ということで。
 もちろん、アナーキスト本人はしませんが、無政府主義者とはそういう人々のことだ、といことを普通の人に話しておくというか。
 独裁は無政府主義者の敵だけれど、かといってそこで生きている人間、民衆の、その生きているプライドを忘れれば、「人殺し」 ブッシュと 「何一つ」、髪の毛一筋、変わらない、ということです。違いは、権力を握っていないただの市井人というだけ。簡単にいって、あなたも世が世なれば北朝鮮で生きている。そこで、運良く食えてるか運悪く農村で飢えているかは別として、いくら飢えていても他国に侵略されるよりましだと思いませんか? ましです。 それを忘れて、圧倒的な軍事力を持つ者が言いたいことをいってはいけない。(わたしなど、酒飲み話では言いますが)
 
 さらに、いって、拉致で怒るのは当然至極ですが、それでも違和感は、拉致された人間は、仮に生きているとすれば、今までどうにかこうにかして生きてきたんだ、ということです。なんか、反対派ってそれを忘れてないかなあ、っていうか、想うような人は100人に1人のような。端的に言えば、恐ろしくてそんなやつらの前に出ていけない、というか。前に出て行くにはこの30年を捨て去った顔で現れなければならない。
 こういうと、奪還運動に差し障るから大きな声では言いませんが、絶対自由主義者とは、拉致された人間がどうやって今生きているのか、を忘れてない人間のことです。親の気持ちがどうとか、って、そうじゃない。評論家になっちゃダメですよ。生きている人間は、私、あなた、彼、彼女、そうした1人だけです。
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