というわけで前回の続き
なぜ客観主義では悪いのか。
人間はどうやって生活しているでしょうか?
人は行為することで生活できる。
残念ながら寝たきりになった人も、自分の意志を周囲の人間になんとか伝えていくことで、人生にもなんとか折り合いをつけられる。
さて、人の行為とはどういうものか。
それは行為論の基礎で難しくはありますが、別に厳密なことをいわなくとも、人は、自分で、身体的な要求や精神的な要求によって、次の瞬間の自分の姿をイメージし、その将来像を実現するように、時間時間を行為します。しますよね?
おなかが減ったら「こうすればおなかがいっぱいになった自分の記憶」をたどり、冷蔵庫を開けて物を探す。ガールフレンドに「おなかが空いた」といわれば、「以前のテレビ番組でケーキをあげて喜ばれていた主人公への記憶」をたどりケーキ屋に入る。
そして冷蔵庫のお菓子を食べ満足し、あるいは女の子にごちそうさま、といわれて満足する。
人間にとって、この自分の行為の成就が、まず行為の満足の前提、生きる喜びの前提です。
それが人間の主体性ということです。
さて、残念ながら、今の日本では、この主体性が、会社にからめ取られ、カネにからめ取られしている。
そうしませんと食えませんからね。
われわれサラリーマンは会社のために働く。
会社や官僚組織での諸行為は、会社の儲け仕事や組織目的の実行行為に限定される。
問題はそこに主体性がないというわけではない(あるんだから)。
しかし、その行為が資本主義的に、あるいは官僚組織的に、限定されている、ということなのです。
その結果、クビや退職で会社から離れたサラリーマンは
第1に、生理的-身体的要求上主体的行為を剥ぎ取られ(食えなくなって死ぬことです)
第2に、次なる主体的行為に著しい制限を生じさせる。(ほかに食う手立てもないので、自分の精神性に反して、楽しくもない乞食をしたり、あるいはやることもなく呆然として認知症になることですな)
第3に、なんでもやれるはずの人生は、40年間の組織活動しかしない人生となる。
まあ、社長や高級重役や高級技術職なら、そんな人生でもよろしいのでしょう。
こういうのは、別に資本主義会社だから悪いという問題ではなく、明治期農村でも同じことですけどね。(別に大正や昭和なら許すというわけではなく、ただの例です)
主体性は、まずはそうした生理性-身体的生存の前提をからめとる社会システムによって、剥奪はされないが、非常な制限を受ける。
そうした社会的事態に対して、自己の自由な選択に基づく行為による満足
自己が想定した満足すべき将来の獲得、
その獲得により生ずる、次の自己の世界の我が物化
(ある一つの自分の行為の成功で一つの将来が得られますと、自分の想定に次の将来が広がるその実現が次の満足を生む、その積み重ねは、振り返りつつ将来に進む人間の人生で、自分の宝物になることは、あなたに想像できますか?)
それが、支配的制度に囚われる必要がない場合のふつうの人間の生き方であり、「主体性」主義ということです。
それがアナーキズムです。ってひとこと余計か。
主体性とは、(昔の人しか知らないでしょうが)反体制の念仏や恫喝の言葉ではなく、ふつうの人間の生き方のことなのです。
さて、それでは客観主義って?
客観性は生き方ではなく、主体的に生きる人間の道具の作成方法に過ぎません。
それを生きる態度にすること、それが他人の道具としての人生を生きることであり、じつは生きたはずの過去を思い返せばおしゃべりをして過ごしただけの人生であり、要するに客観主義的人生です。
「技術は労働手段の体系」?
それもよいでしょう。資本家や政府や労働者やおしゃべりの大学教授にとって、それは生きるに際して道具として使える有用な概念です。
しかし、それで技術のことを分かったと思われては困ります。
それは評論に使えるだけの言葉です。一方、技術とは人間の行為です。自分が次に取るべき行為を客観的にいうことを「客観主義」というのです。それは人間が生きていること自体の表現には、使い物にならない概念だ、ということです。
なんてことは、「戦後主体性論者」であれフランス実存主義者であれ、誰も語っていないし語れないし想像もできない、という真実ですよ。(でも彼らの言に似てる? さて似てて違うところを探してみると、また一つ真実がわかります)
みなさま、よいブログにこられて幸運です
なの。
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