リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「機能的先行要件」論の存立根拠

2021-03-20 14:00:15 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方天気は悪いですが、いよいよ春が桜の形をしてやってきました、まだ勢いは弱いですが。幸い、今日明日では春の満喫は無理です。来週土曜はyahoo天気では晴れとのこと。まずまずかな。花粉もスギは終わってそう。

 さて、例によってニュースも普通誰もが思うことばかりで。渡辺直美氏や「記憶にないと言え(武田総務相)」とか、心にあることばかり公表されて。わざわざ私が言うには及ばず。
 で、1。経済欄のコラムに、地方の若い人が都会に来たら、男は帰っちゃうけど、女はそのまま東京にいるんだって。なるほど、そういうこともありそう。私はそのほうが良さそうに思う、故郷の姿は変わるし。他方、心の中のふるさとはもうしっかり根付いて変わらないから、私などほんとうにうらやましい。母なんかボケても故郷の夢を見てとても楽しそうだったよ。私のふるさとは忘れたいことだらけ。
 その2.讃岐うどんは瀬戸大橋の開通(1988)で、讃岐の加ト吉が有名になって有名になったんだって。
 覚えてるよ、その頃。ほんと爆発的登場。わたしゃ硬いのは好きじゃなかったけどね。香川行って田舎で食べたら、庶民的で好きになりました。150円だったよ。
 
 で、ここんとこ多い社会学の話題に行っちゃおう。
 今週のメモは、おとといだかの新聞。
 澁谷智子という社会学者が「ヤングケアラー(子供なのに大人のケアをせざるを得ない人たち)のことは見ようとしなければ見えない」と。なるほど、おっしゃるとおり。こういう見えないものはぜひ社会学者にあらわにしてほしい。なにも「科学」に従事する必要はないのだ。評論で十分。 
 といえば不愉快でしょうかね、なんでジャーナリストではいけないのか。彼らは日頃の行いが悪い? そんなことで軽侮されてもね。まあ、お互いさまというものでしょう。  
 その2、東畑開人氏 、これは社会心理学。孤独な人間の問題。「孤独は連鎖する」「孤独に介入しようとする人は孤独になる」。支援も連鎖しなければならない、と。
 これもなるほど、問題は科学などではないのだ。ただ、その「すべ」の提示は科学の役目である気がする。これは私の1年4か月後ね。
 ともかく、たとえ社会学徒に過ぎなくとも、「「6万円は多いから…」困っている人に無料弁当、街の飲食店が歩んだ「共助」の2カ月半」(弁護士ドットコム)なんて人に、近づきたいものです。

 まあこの辺は、「普通」の範囲。
 本日の題は、「なぜ主意主義的な行為理論によるシステム論では先行要件が語られなければならないか」。
 すんません、おはなし相手の潜在的対象者は、そうだね、100人ほど。なにそれ? って、まあまあ。
 さて、主意主義的人間が登場人物である社会理論においては、自分の目の前にあるのは「社会」と呼ばれるネットワークです。科学はこれを変えなければならない。ではどうやって変えたらいいんだ。変えるからにはその仕組みがわからなければならない、じゃあその仕組みとは何か。
 そう自問したとき、「社会」なるものが実体として屹立します。屹立したらさあ大変、人間ならその行為を変えようとすれば、「脅す」とか「お願いする」とか、方法だけはわかりますが、得体のしれないこの物体、どこのスイッチを押せば変わってくれるのでしょうか?
 私、行為理論者隈はご存じの通り、そんな視点があるもんか、と無視したわけですが、さてところで、改めて社会学者諸氏の視点に立ってみると、なるほど何にも見えはしない。
 というわけで、研究者の視点が行為者に凝り固まってしまうと、この眼前に、「社会体系」が屹立してしまうわけです。これは理論者の欠陥ではなく、いたし方のないところなのです。
 どうでしょうか? 趣旨がわかりました?
 潜在的対象者とは、自分で科学理論を作ろうという野望のある社会学徒。100人じゃ多いかな?
 
 さてそこで、では「その社会体系が何でできているか」という問いが出る。その構成要素を変えればシステムは変わるだろう、と。これが functional prerequisites です。
 (懐かしいなあ、安田三郎先生ですよ、って、(安田の数理社会学しか知らない)中年以前の社会学者はエッと思われるでしょうが、自分の頭しか使わない最後の意志的な基礎理論社会学者です。安田先生ほど公正を論稿に表現した理論家はいない。ま、本件、対象は100人だから。)
 このとき、社会システムの必要前提条件というものは、当該レベルのシステム概念に付属するものではありません。
 社会の存立には、「経済」や「政治」が必要なことは想像がつきます。では「経済」のうちのどれだけの要素が必要なのか。「政治」の中のどれだけの要素が必要なのか。これらは決してアプリオリに決定されていることではありません。理論者が付け加えるものなのです。
 そして何を追加するかは理論者の腕次第、ということになるのです。このレベルでは、つまり主意主義的行為論者の「全体社会的システム理論のレベルでは、その概念構成の恣意に属するものであり、なんら科学上の意味はないのです。   
 つまり、この視座では、あろうことか、社会学は学の帝王ではなくなってしまう。政治経済学にお伺いを立てねばならない。これは隈の社会学が政治経済学を人間社会につなげているのと、真逆な状況が生まれているわけです。
 
 さて、しかし、だからだめだ、と限るわけではない。次回の隈の論究はそうではありません。
 この困難というか理論上の矛盾が生ずるのは、行為理論から立ち上がろうとしているのに、「研究者Aの頭で社会のことを考えようとする」ためなのです。人のせいにしちゃあいけない。
 社会のネットワークはそこにはない。下位体系である登場人物の環境の中にしかない。
 たとえば、支配者という「下位」体系の構成員について、すなわち、社会体系の具体的人間の所作について、上位ステムの管理者は、つまり支配者とその代理人たちは、飲み屋でバカ話した帰りの電車内で、その主張の重大さに気づくのである。「これを許しては我が国は滅びる」。もちろん滅びるのは国ではなく彼らの体制なのだが、支配者と彼らの代理人は、そのくらいには目先が効くのです。 
 と言って、もちろんそれらはAGILではありません。彼らの目の前に屹立するものは、集約すれば 
 1 資本主義的利潤体系の問題であり
 2 政治体系をそのまま裏返すことはできないので、政治主催者の変更の問題であり、
 3 秩序の各構成的正当性の保持ないし創成の問題です。
 
 なんだAGLではないか、と言えばそうではありません。これらは断じて「平面」で描けるものでもなく、サイクルを描くものでもありません。2,3は利潤体系に付随して動く2次元のものです。
 そうか、それにIもないな。
 と、それも違う。
 パーソンズ等に周到に練られた末のIの存在は、決して支配者存立の問題ではありません。これは存続の必要条件ではなく、崩壊に係る必要条件、破れ目を糊塗するための手段なのです。 
 もっとも、すべてAGIL図式は資本主義擁護の学者たちが精魂込めた結果なのであり、決してバカにしたものではありません。が、彼らの思惑から外れた変革の視点からは、残念ながら、その平面性あるいは同格性は、社会科学においては、あるいは生きている人間においては、致命的な非現実性、あるいは非行為理論性を帯びるのです。
 
 さて、今述べたことはこの理論構成の通り、支配者が居る「下位体系」の話です。決して全体社会の理論ではありません。
 どうでしょう、100人の方たち、主意主義とシステム論のこのアポリアをすり抜けて全体社会の科学が作れますか? 
 
 
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