リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

ナショナリズムの前提条件

2021-03-13 11:42:05 | 歴史への視角
 こんにちは。東京地方、雨。ここんとこずいぶん降って、一時は近くの小池も干上がりそうでしたが、ずいぶん戻してきました。これだけ降れば草木も文句はないでしょう。
 もう雪は降らないってことでいいかな。今年は雪かき当番なので。早起きして雪かきするのが嫌。いつもは雪見で好きなのですが。
 
 ところで忘れてましたが、3週間くらい前にメールくれて、返事が来ないという方はいないですよね?
 windows10に無理やりインストールした”windows live mail” がなぜかエラー起こしてどうにも直らない。なんかwindows10を更新したんですかね、しかたないので急遽office付属の”outlook”に変更したのですが、多少時間がかかってて。
 outlook、ほんと使いにくい。メールソフトもどんどん悪くなる。
 ところでIME、「急遽」って何かね。「急拠」でもんだいないじゃん。
 
 で、なんでもコロナ・テレワーク用補助金って10万円以下のパソコンにしかつかないって?
 そりゃひどい。
 皆様におかれましては、ノートならcorei5以上、SSD付きでないと不満が残るでしょう。それにOFFICE付けたらどうなるか。OFFICEは後付けでも10万は無理だな。
 わたしはデスクトップ(液晶無し)なのでメモリー8GM、corei3(デスクトップ用のほうが早いそうな)ですが、SSDなしで不満。購入後半年もすればディスクが詰まってきて立ち上げも更新もいらいらする。office付きで9万弱ではありましたが。まあ前のよりましだけどね。うちのでテレワークなんかできんのかな。テレワークはしないけど、テレ飲み会ってどうかね、面白いのかな。
 
 さて、福島10年も過ぎました。ところで「福島」と一般化していいのかどうか、だれも失礼だからいわないけどどうなのかねえ、福島も広いし。
 で、富岡。ほかのブログにありましたが、googlemapが効くんだねえ、すごい。一通り眺められるの。市街地まで行けばなんとなく昔の面影は見られるからそれもすごい。まあ部外者が感想を言うと怒られそうなのでやめますが。
 わたくしごとですが、市内でここに引っ越したのもその時。なので10年間の感想というのもありそうですが、ない。勤労仕事をしないこの数年、ほとんどゼロ。やはり人間働いてないといけません。
 
 さて、本日のお題のとっかかりはマンガの代わりに借りた佐藤優「はじめての宗教論・左巻」。この「マンガの代わりに」という接頭語は定期的に注釈がいるかね、「マンガのように文学的な」という褒め言葉ではなく、ただの「気晴らしに」という意味です。
 まあこんな特殊な書物が「はじめての」じゃ若人は大変。 
 しかし意味不明ではなく、佐藤優らしい良品。ほんと同時に借りた岩波講座現代とか、存在意義ないし。同著投稿者本人たちも、「業績岩波1編」以上の意味など自分でわかんねえんじゃないか。もう岩波要らねえよ。もともと存在意義があったのは岩波全書の時代だけさ。
 は、置いて。
 佐藤氏、イデオローグらしく、ナショナリズムを「宗教」とかいって、異教的讒謗 を続けている(読み方は「ざんぼう」ですが、覚えなくていいですよ)。もちろん「リベルテール=無政府主義者」を標榜している隈もナショナリストなんか嫌いだろう、とかお思いでしょうが、あにはからんや、というのが本日の趣旨。
 おにいさん、そりゃ違いますよ。
 佐藤氏のように何でも引き付けて大きく理解することは大事ですが、社会科学概念は順序を踏まないと間違えます。
 (1)まず、主張としてのナショナリズムはどの国家内構成員にも生じます。国家間のいさかいがある限り、観念的には結論される主張なので、このいさかいの周辺者は必ず考えるわけです。これに対置される個人重視の主張も、国家権力に脅かされる人間が必ず生じますので、その当事者が主張するところです。これは、対置はされますが、成立次元の違う主張です。いずれにせよ両者とも、ただの意見です。
 (2)ついで、国家権力者がイデオロギーとして流布したい国家主義があります。
 この存在には、かならず、そのイデオロギーによって叩き伏せるべき対象勢力のイデオロギーがあるのです。つまり、国家の分裂が存在要件なのです。いいかえれば、生理的条件の確保をめぐる闘争が存在要件なのです。ここでこれへの対抗イデオロギーは、国家を挙げた変更イデオロギーと、個人主義イデオロギーとです。このとき前者は主張されないナショナリズムです。
 
 イデオロギーの外観を取り除いたナショナリズムの本体は、暴力の行使をめぐる隣の人間との共有志向です。それは国家暴力と隣組で組織されることもありますが、それはただの暴力の組織化の1形態です。
 この主張されないナショナリズムの主体は人民です。国家が分裂しているときには、人民は自己の暴力「力」を国家に集約されるのは拒否します。そこで何と呼ばれようが、民衆の暴力は民衆の「うち」において集約される。ミャンマーを見ればわかるでしょ。その口では国家を唱えようとも、彼らの暴力の共有先は、隣の人間です。民衆の暴力はそれ以外に存在もしようがない。なぜか? 国家から離れた瞬間に、民衆は自分が殺されてしまうからです。自分が殺されて満足な仕様の下でしか民衆の暴力は発揮しえない。 
 ここでは初めに民衆内部での暴力の行使がある。次いで、その共有態勢がある。それが国家にとらえられるのは決して偶然でもないし、さらに重要なことは、国家の陰謀でもない。国家さえ困ったことに、民衆が自分たちで暴力を集約してしまうのです。
 
 ということは隈三部作の結論でわかることなのですが、しかし結論として書かないと普通分からない。し、全体社会論の次元からその結論はでない。人間の実践選択の場面に読者を引き連れていくことで、ようやく読者に理解される問題とその解読なのです。
 というふうに次回論究の宣伝を脱稿1年4か月前から続けるのはいつもどおり。ま、分かりにくいのもいつも通りですが。
 
 なお、キリスト者にお教えしますが、結局、聖書を基準にする限り神の真実は明らかにはなりません。たかだか人間が自分の都合で書いた叙述(しかも特定すぎるやつらが書いたそれ)ですよ、そんなもんに神が表れるものですか。神は天にいる。しかし天は宇宙ではない。それさえわからないやつになにがわかろうか。
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