リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

オカルト(その18;生命の哀しい志向)

2023-07-15 13:54:48 | オカルト(途中から)
 こんにちは。東京地方猛暑、中の、今日はましな日、明日からまた37度だとか、これで今夏は終わりにしてほしい。
 こんな暑いのに昭和記念公園プール(という東京西部で一番広いプール施設)がコロナ下営業中止のまま廃業だって。38年の歴史とか。プールなんてあっちもこっちもなくなっているのに、また一つ。
 思えばうちのガキたちは幸せな子供時代を過ごしたものだ、ピカピカの遊園地もあり、プールもいくつもあり、といっても気づかないだろうけど。なんでも失って初めて気づくものです。
 もっとも真岡市では一万人プールとやらが営業開始したとニュースでやっていたから、一般化してはいけないのかもしれない。50周年だって。おめでとう、いつまでもあるといいね。50年前遊べなかった真岡のスポーツマンの同級生は水泳はやらなかったみたいだよ。

 当家のニュース。レンジをIHヒーターに替えました。電磁ヒーター。高齢者世帯ではガスのつけ忘れも頻繁で危ないので。なんだ、もうボケかよ、という前に、ボケてからじゃ遅いんだよね、実家で母がボケて危ないので電気に替えたら、操作がわからないまま死んでしまった。息子が帰ってきたからと、お茶を沸かそうにも、火が点けられないのだから。
 電気容量の変更もあるし基本料金も高いので、若い方々に薦めはしませんが、旧盆で帰った際には、ちょっと親とかおばあちゃんの様子を見たほうが。アクリルのモコモコセーターとか怖いしね。
 ただ、一人暮らしでしたらしょうがない。ひどくやり方が違うので、替えたおかげで料理しなくなったらそちらの方が怖い。ボケてしまう。いわゆるお嫁さんとかがいる家に限ります。
 
 カナダの懐かしいニュース。
 レストランで酒飲んで酔っぱらったから車を置いて帰ったら、翌日車に「思いとどまってくれてありがとう」って置手紙があったってさ。ま、いいんだけど、その店の名が「Original Joe's」と。
 オリジナルジョーズ! おお懐かしい。横浜関内のイタ飯屋。創業1953年。
 懐かしくて検索したら食べログにちゃんとある。さすがに老舗は変わらずあるんだ、と思えば、「閉店」と注がついてた。
 あ、そ。ないのね。
 じゃ関内フレンチ、「シュミネー」は?
 ないの。もう何もかもなくなったのね。
 懐かしいじゃなくて、淋しいニュースでした。
 
 とはいえ、シュミネーという店が高島町(という横浜近くの田舎)にはある。食べログの内観写真見たら、おお、シュミネーじゃん! 調べたら38年前に引っ越し、はいいけど、息子さんの店かね。大昔、職場で行ってもみんな独身貴族だからフレンチも食べられたさ。なにしろ。11人で平均年齢25歳の職場。2人40,50がいたけど置いていった、失礼。でもみんな退職。死亡者までいて。お店が残っているだけすごいともいえる。

 さて、本日は新暦お盆。
 そろそろネタがなくなってきたオカルト。
 本日は何の根拠もなし。
 って、いつもはあるのか、といわれれば、預言者には霊感が根拠である、といえるであろう。
 
 さて、宇宙生命は1である。
 しかし、この物質世界の誕生地に押し流された生命は、物質の隙間に自己の居場所を作らざるを得なかった。彼は山のように自分の位置を見つけた。しかしそれはほんの小さな占拠だった。もともと1である生命には、できれば全部で一つになりたい志向が埋め込まれている。生命は統合を試みた。あるものは結合を、あるものは他の取り込みを。
 結合や取り込みは回を重ね過程が増大するたびに、専用の過程として現象しだす。「食べる」である。
 その結果できた生命体は、合同を、つまり、食事を、生の営みに加えてしまった。さらに統合を積み重ねる。かくて生じたのが恐ろしい顔をした恐竜である。
 しかしその本質は、細胞の、ただの統合である。何も罪を重ねているわけではない。元はといえば哀しい統合過程なのである。食い続けて大きくなるという手段がまるで無駄な過程だと他者が思うだけである。
 
 この過程の統括が、1生命個体に一つの「霊」である。霊も、物質と生命の合間に潜む、単一現象体ではあるが、その役割の中で生命が個別化している時間の間は、やはり個別化せざるをえない。ここに、体の細胞がいくら個別に死のうと平気でいる単一で個別の「霊」が生まれるというわけである。

 というわけで本日のオカルト、(幽)霊を感じはしないけれど、人が思いつかないことを知る、こういうのは霊感というしかないでありませう。

 ところで橋本幸士「物理学者のすごい思考法」の孫引きによると、葉緑体が緑なのは日光中の緑の波長がエネルギーが強すぎて植物の体に悪いから(緑色を)反射してるせいだって。彼氏は納得していたが、これって論理かね? こんな程度の思考で済むならみんな物理学者になったらいいよ。ほんの少しのエネルギーで済むなら黒ネズミ色にしてもいいし、もっと欲しかったら面積を広くしてもいい、いやもっと効率的にというなら緑だけを吸収してもいいがね。要するに、葉緑体が緑の理由はなにも答えてやしない、できれば緑は避けたいはずだという気持ちの提示。そもそも褐色体というものさえあるというがこれは何?
 
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