リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

オカルト(その15;生の意味と霊の統一)

2022-04-09 11:03:09 | オカルト(途中から)
 こんにちは。すっかり暖かくなって、東京地方、晴れも続いています。今年は花粉症が驚異的に鼻の前方から消えたので、パソコンも楽だし、薬も目薬だけなので体調がよくて。皆様にも齢と共に緩解(かんかい)が訪れることでしょう。まあいいことか悪いことか。 
 皆様の中には新しい春の方とか? 私など今どきは、不本意な外勤で街中を自転車していたころを思い出します。街路樹の八重桜が花盛りで、せめてもの慰めでした。ほんと、ただの思い出になってよかった。皆様にもいやな仕事もいつか思い出になることでしょう。
 
 一昨日は法事で2年ぶりの会食。食事はそんなもので、お酒もビールを飲んだだけですが、大人と一緒の会食はいいものです。みんなワクチン高齢者だからコロナも安全だしね。もちろん若人の方はお気をつけください。後悔先に立たず。
 
 で、そこの真宗の坊さんの説教で、「故人に思いをはせることで故人も二度生きるのです」とかいうのがあって、わたしは目は悪いけれど、その分、耳で生きているので、そうかしら、と本気で考慮。お盆はまだですが、奇(く)しくも昨日は「花まつり」(釈迦の誕生日)なので(法事先で花まつりしてた)、突然ですがオカルトです。
 なんせニュースなんか不愉快でまったく見ないのでネタがありません。(って聴いてるけど)
 
 さて、生の意味とはどういうものか。
 そもそも生きているとは、細胞が動いている一方、考えている主体があるということです。したがって、生きている意味は、この観念と体の動き、細胞の活動「の中に」あります。たとえ、「生きていることには意味がない」といおうと、生きている意味はその「意味はない」という観念と活動の中にあるのです。
 では「その中に」どんなかたちであるのか、その内容はひとそれぞれで、他人が決めつけてもしょうがありません。しかし、観念と細胞の動きとの中にあることにはまちがいありません。
  
 さてところで、生にはもう一つの意味がある。「生きた」という意味です。この生きたという意味を担うものは他者です。他者の思いの中で人は過去「生きた」のです。
 したがって人間の生の意味とはこの両者の統一の中にあるわけです。
 
 他人の思いの中で生きたなんてそれは文学的修辞にすぎない、ですか?
 いやいや。
 この生者と死者、本人と他人を統一するもの、それが「霊」です。
 既に「オカルトカテゴリー」で明らかにしたように、生命が宇宙において「一」である一方、「霊」も宇宙において「一」なのです。霊とは、他者のものも自己のものも統一されて、はじめて「霊」なのです。
 しかして人の生の意味とは、自己のその観念と肉体であるとともに、他者の中にも存する。人は他人を思えばそこに他人の生の意味も生まれる。霊は他人のそれと混合して、ある一個人の生と他人の生を作り続けているのです。

 預言者隈が、今回は仏教教祖になっちゃったよ。
 さすがに仏教は人生訓による支配思想という99%の外皮を除けば、哲学だね。釈迦の哲学があるから。
 100%人生訓のキリスト教は、あれはなんだい。全部神様の言う通り。原始人にもほどがある。しかもそれが自分で作った神様とあっては何をかいわんや。(イエスがいる? そこだね。どうもイエスの哲学というのがわからない)

 
 おまけ。最近の不思議。
 昔から仕事のパソコンいじりでひじに傷ができるほどだったのですが、アルバイトもやめて、ひじは左腕しかつかないのに、一貫して右ひじに傷ができる。左はきれい。これはなんでしょうか?
 肉体上の刺激も、眼で見えるその場所ではなく、いったん脳とかの神経組織で解釈されて「傷を治せ」と指令されるんじゃないかしら? で、私の脳は右と左を間違えている。
 心理学の学生さんは、頭にとめて答えを見つけてくださいな。
(p.s.つい心理学と書いてしまいましたが、精神分析者やカウンセラーのことではありません。昔は脳生理学と言ってましたが、最近は脳生理学も心理学の市民権を得たようなので頼もしいことです。と、注釈)


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