リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

社会科学概念の歴史的規定性

2018-08-25 09:14:49 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。また暑さが戻ってしまって。この間の雨ったら、いつも買い物とかに出かけるタイミングを東京アメッシュ(という東京地方の雨レーダー)で見るんですけど、土砂降りの雨雲がばんばん飛んで。青梅市とか知り合いが住んでるんですけど、ほんと、山は荒れ狂うんですねえ。  
 この1ヶ月、時間が矢のように過ぎて。家事以外には思考しているだけなので、外界の変化がなく、睡眠状態と同じなのだろうか、と思うところ。外出しても行き帰り矢のようだし。ゆったりとした外出が望まれます。

 さて、本日のテーマは、食べたい食べ物は美味しいか。
 題が違う? そか。まあ新聞と同じ感想を書いても時間の無駄だし。
 一昨日家人がメンチカツと間違えて買ってきたハムカツ(ぶ厚い)。ハムカツってまずいよね? あの塩辛いというか胡椒辛いというか異常な辛さ加減たら。でも時々は食べたいんだよね。
 変? ピーマンとか焼き鳥とかビールとか、不味いよね。でも時々は食べたいんだよね。
 俺は好き? だったらゴーヤとかアシタバとかクサヤとかならどうだろうか、結局、味覚なんていい加減なんじゃん? 食えりゃあ後は別の要因なんじゃね? 「あれ食べてあんとき楽しかったな」、の類いの反応で、居酒屋とか故郷とかの思い出のせいで、腸から(身体から)快感ホルモンが出るんじゃないかしら。オキシトシンとか。腸からは出なそうだけど。あるいは、「外で食べるとなんでもおいしい」というのは、実はセロトニンを味わってるんじゃないかねえ。
 どう? なかなか大胆でしょう。老化してもまだバカにはなっていなそう。
 というわけで、役に立つブログ。テーゼ「食べ物は不味くとも楽しく食べるのが勝ち」。
 
 あと、ごく若い人用に昨日の夜のニュース。「東京都と首都大学東京(八王子市)の運営法人は24日、同大の名称をかつての「東京都立大学」に変更する手続きを始めたと発表した。知名度の向上が目的」(時事ドットコム)、これは新聞とは感想が違うぞ。
 ざまあみやがれ、石原。(この組織改正は、石原慎太郎が東京最後の左翼インテリの牙城をつぶしたくてとった政策。ま、石原の役目は終えて左翼インテリは消えちまったけどね。) 
 改名後、売り物の社会学は残ったとはいえ、名の知れた英文も独文もこの際心理学も入れようか、も、なくなって、どこが大学か、みたいなところはありますが、名前だけでも元に戻ってよい。ざまあみやがれ。他人に知れる前に名前がなくなる卒業生には少しだけ同情しますが。
 ところで、今検索したら都立大の偏差値が神戸大、千葉大より下だったとかいう発言が。こうゆうのは2通りに違うんだよね。第1に、地域。地元の偏差値は高いの。私の頃は「東京では」都立大人文学部は東北大文学部と同レベル。もちろん東北大は東北の雄だから偉いんだけどね、しかし、東京人的には「都落ち」。第2に、時代。昔は慶応ボーイ以外はみんなが貧乏だったから、昔の私立は、早稲田だろうが慶応だろうが、全部国公立の滑り止めなの。うそつけ、たって、あなた、国立年額12,000円の授業料に対して、私学授業料その他年額10数万円払いたい親が何人いたと思う? あとは自宅から通えるかどうか(下宿代を払えるのか)で決まったのだよ。もちろん国立に受かったって女とかだと親に授業料を払って貰えず、泣いて就職したのさ。私は幸い、学部のときは親に早稲田に入学金込み22万円ほど払ってもらって(発表日がずれてた)1日も行かず中退届を出して、国立年36,000円(その年から上がってた。それでも都立大は年額12,000円(都内在住者))でしたが。(大学院経歴はその後です)
 まあこういう下卑た話題には卒業生は乗らないからね、おかげでそのままネット情報が生き残ってしまう。私は家が近かっただけで関係ないし。
  
 というわけでオタク用本題。
 また暑くなって図書館に行きたくないので開いた富永健一「日本の近代化と社会変動」。一度話題にしたこともありましたが、当家には本がわずかしかない。社会学者はどんなふうに歴史を見るのか、と思って開いたのですが、ムダくさい論議ばかり。東大教授は、いらん知識を並べ立てて感想を書けば本になるんでいいやね。知識、めちゃくちゃ。と分かるにはどのくらいの修行期間がかかるのかね。
 
 さて、社会科学の概念はもちろん歴史的に規定されています。ある時点で正しい概念が持つ因果連関は、50年後においても現実に妥当するかといえばそうとは限らない。これはいいでしょ?
 で、この歴史的な規定性を形成するものは、それが社会科学的概念である限りは、
 1 消費物資の生産の必要にかかわる当時の与件
 2 それの時点までの支配上の組織的な当時の与件
 3 行為共同性にかかわる当時の与件
 である。
 というのは隈理論だけどね。
 いってみれば世の中は、経済的な条件と政治的支配の条件と社会学的社交上の条件とで変わる、といえば「理論社会学者」にもわかるか(「文化」領域だけはないよ)。上記1行は飾り文句でなんの内実もないけれど、まあいいや、先に進まないからね。
 たとえば、生誕に伴う人間集団(=いわゆる家族)の形成は、隈が指摘する上記の条件の下で、「シンプルな核家族」や「家父長制家族」、あるいは「同族たる家」ないし「家父長制の性格を持った『家』たる家族」、といった現実形態をとります。
 こうした把握が社会科学的には正しい。因果連関を前提としているからです。因果連関は人間において、未来を変更するための、それだけが科学の名に値する理論契機ですから。
 ただ、それにもかかわらず、そうでない学問もありうる。当該現実の特性を明らかにする、あるいは際立たせるための営為です。これは科学ではないが人間に必須の事実認知をクリアするための重要な営為、学問です。ここでは、たとえば、有賀喜左衛門、中野卓、さらに「戸田貞三・喜多野清一」を挙げておきます。
 「なんだ、性格の悪い科学主義者の癖にずいぶん寛容だな」と思ったあなた、有賀シューレは師匠筋なもので。就職や進学の推薦状書いてもらったし。ま、それはそれ。喜多野もお弟子に習ったしね。
 
 さて、ここで第1の問題は、この2通りの論の次元の差異がわからない論者の存在です。
 富永健一氏。彼は先の本で、家父長制とは「家長の専制支配のもとにある大家族形態」のことであるとして、有賀喜左衛門の論を排しております。いわく「近代化」です。日本の「家」はただの農業社会段階に普遍的な家父長制家族であり、この変容こそ近代化なのだ、というわけです。これは有賀ではなく、「家制度=家父長制の一形態」派の戸田貞三・喜多野清一にとって喜ばしい批判ではありません。後者にとっても論題は現実の日本家族の「文化的形態」だからです。彼らの社会学史上の労苦は、日本文化の特徴の解明なのです。これは自明なので時間の無駄で論証しません。
 さてそこで、人は自分のテーマの解明のためにそれに適した用語を使う権利をもつのであり、それを取り上げて、なにもわからぬ他人がとやかくいって偉そうにできる学問上の役割分担はありません。物事をいい加減に扱って平気なのは、毎年毎年癖だらけの俊英を育てなければならない東大社会学講座の主任教授としては正しい行いでしょうが、それはその仕事限りのことです。
 第2の問題は、科学の枠組みです。因果連関だからといって、その議論の集約形態が無用な概念であるとなれば、それは科学ではありません。歴史に長く尾を引いて虚空に消える幻影です。富永はその結論を「近代化」という観念に集約しました。無意味です。近代化とは何か。それは神の思し召しか。「近代化」はただの歴史の推移という以外のなんの学問的契機も内包しない「概念」です。というよりもそんなものはそもそも概念ではなくただの単語と言うべきでしょう。いずれにせよ社会科学者の用語ではありません。ちなみに、それをいいたいのなら「資本主義化」です。もちろん「資本主義化」は社会学語ではないという主張は50年前からありますが、それはただの体制派の社会学の自己規制です。
 まとめますと、こういう場合は
 「日本の『イエ』は有賀以下が解明したように○○な実態を持つものであったが、これは世界史的にはいまだ商品経済の波及が農業生産上の××を侵していない状況で、江戸期の支配の△△も運動によって阻害されず残存し、イエ共同体の構成員の平等を□□に制約している状況における『生誕に伴う人間集団』の現状であった。したがって、これらの日本的特徴は商品経済の進展、すなわち資本主義化によって崩壊していったのである」といった議論を展開しなければならないのです。まあ今更富永を批判してもしょうがないが、こういう人たちには弟子がいるからね。

 というわけで、本日のオタク用のお役立ちは、概念の歴史的規定性の本質。概念なんて普遍概念以外は定義するもんじゃない、という真理の説明。社会科学では普遍概念を歴史用語化して当該歴史的時代における事項の連関を明らかにすればよいの。「普遍」も相対的だけどね。ウェーバーの「厳密な」定義? あれはただのあほ。ちょっと具体的にわかったでしょ? 大学いっても誰も教えてくれないぜ、こんなこと。
 
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