クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

<リブシェ>(2)、ケンペの<売られた花嫁>

2006年09月02日 | 作品を語る
今回は、スメタナの祝典歌劇<リブシェ>の残り部分についてのお話と、ルドルフ・ケンペの指揮による歌劇<売られた花嫁>全曲盤(EMI)を巡っての感想文。

〔 第3幕 〕 ~第6場「リブシェの予言」

リブシェが国民への祝福を述べ、国家の輝かしい未来を次々と予言していく。英語ではpictureという単語で訳されている一連の映像が続く。これらは皆、予言能力を持つリブシェの眼前に広がってくる「チェコの未来を示す映像」である。(※チェコ語の読み方に自信がないので、以下英訳を見て和訳出来る最後のピクチュア6以外は、原語を残した英訳版をそのまま並べてみることにしたい。)

ピクチュア1 Bretislav & Jitka
ピクチュア2 Jaroslav of Sternberek
ピクチュア3 Otakar Ⅱ , Eliska & Charles Ⅳ
ピクチュア4 Zizka , Prokop the Great & the Hussites
ピクチュア5 George of Podebrady
ピクチュア6 魔法の光に包まれたプラハの王城

リブシェの予言を受けて、力強い合唱が全曲を締めくくる。「チェコの人民は決して滅びない。地獄の恐怖にも打ち克つのだ。栄光よ!栄光よ」。

(※最後の第6場では予言映像のそれぞれについてリブシェが力強く歌っていくのだが、これを聴いていると、リブシェというのはつくづく並みのソプラノ歌手では務まらない難役であることが実感される。チェコ語の発音という言語面での問題もあるが、それ以上に、彼女には上に超の字がつくほどのドラマティックな声が要求されるのだ。これはほとんど、《指環》のブリュンヒルデ並みである。しかも、この場面の少し前では、事件の一家を前にして見せる柔和な表情など、女性的な優しさもしっかりと歌い出さねばならないのだ。)

(※上記6つのピクチュアの中で、クラシック・ファンの多くが聴き覚えを感じるのは、きっと4番であろう。英語でthe Hussitesと表記されているのは、日本語では「フス教徒」。そしてここで聴かれる音楽は、同じスメタナが書いた《我が祖国》の最後の2曲、<ターボル>と<ブラニーク>で繰り返し聴かれる有名なテーマである。具体的には、フス教徒たちのコラール「なんじの神の戦士」と呼ばれるものだ。このピクチュア4を耳にしたら、「あ、これ聴いたことある」と思いつく方が、きっとたくさん出て来ることと思う。)

以上で、<リブシェ>のお話は終了。

―ケンペの<売られた花嫁>(EMI盤)について

今回は少し枠に余裕があるので、ルドルフ・ケンペの指揮によるスメタナの歌劇<売られた花嫁>の全曲盤について、少しだけ語ってみたい。オーケストラはバンベルク交響楽団で、出演者はピラール・ローレンガー、フリッツ・ヴンダーリッヒ、ゴットロープ・フリック、他といったメンバーによる録音である。これはLP時代の愛聴盤だったが、つい昨年、ひょっこりと国内盤の中古CDが見つかったので買い直してみた。果たしてこの20ビットCDの音は、LPで聴いていた時の素朴なイメージを完全に覆すような豊麗な響きを再現してくれたのである。「ああ、この演奏って、実はこんなに豊かな音でやっていたんだ」という感じであった。

豊かな、と言えば、ケンペ自身がこんなことを言っていたそうである。「これほど豊かな気持ちで<売られた花嫁>を演奏できるオーケストラを、バンベルク交響楽団以外に見つけることは難しい」。【注1】戦前のチェコ音楽文化を形成した人たちが中核メンバーになっていたバンベルク響と、チェコ音楽にかねてから親近感を抱いていたケンペによる共同作業は、たいそう実り豊かな結果を生んだ。ここにはいかにもケンペらしい、けれん味のない清潔な音楽作りで、軽やかなフットワークとほどほどの重量感が絶妙につり合った名演奏が記録されている。そう言えば、同じドイツ系の名指揮者オトマール・スウィトナーにも同曲のハイライト盤(Berlin Classics)がある。そこでのスウィトナーも非常な熱演を披露しているが、いかにもドイツ風の音作りというのか、低音がドッシーンと出て来て、音楽の重心がやたら低い。(※それを悪いなどと言うつもりはないが。)チェコ系の指揮者たちなら、全体にもう少し軽めのサウンドを使うことだろう。ケンペの指揮というのは、その間のバランスを非常に巧くとっているもののように、私には感じられる。

ケンペ盤では、三人の主役歌手陣がまた素晴らしい。ハンス役(T)のヴンダーリッヒは、いつものように魅惑的な美声を聴かせてくれる。歌の見事さと演技の巧さも、いつも通り。結婚仲介人ケツァール役(B)のフリックも、芸達者なところを見せている。この人は物凄くドスの効いた声を持っているため、一般的には、「偉大なる悪役歌手」というイメージの方が強いかも知れない。《指環》のハーゲンや、<魔弾の射手>のカスパール等が代表的なところだろうか。しかし、どうしてどうして、彼はコメディアンとしてもなかなか優秀な人だったのだ。例えば、ロベルト・ヘーガーの指揮によるニコライの歌劇<ウィンザーの陽気な女房たち>(EMI)でのファルスタッフや、ロルツィングの歌劇<ロシア皇帝と大工>(EMI)でのファン・ベット市長。これらの役で聴かれるフリックの演技上手には、本当に感心させられたものである。(※後者の例で言えば、多額の賞金話を聞かされて息を呑むファン・ベット市長の表情が、その声の演技だけで目に浮かんできた。)そう言えば、当ブログでかつて扱ったロルツィングの歌劇<ウンディーネ>(EMI)での酒蔵番ハンスもこの人がやっていて、若きシュライアーが演じる従者ファイトと息の合ったやり取りを展開していた。この<売られた花嫁>でのケツァールも、闊達な演技力で見事な存在感を示している。

しかし何と言っても、マリー役(S)のピラール・ローレンガーこそがここでは最高と言うべきであろう。スペイン出身の彼女は、ヴィブラートの効果を最大限に活かした美しい声の持ち主だった。特に、その伸びやかな高音で発揮される芯のある美しさは、匹敵するソプラノ歌手を他に見つけるのがちょっと難しいと思われるほどだった。歌の性格としては、どこか強い内面を秘めた女性の役がよく似合う感じだったので、ショルティの指揮で歌った<魔笛>(L)のパミーナなどは、まさに当たり役の一つだったと言えるだろう。<売られた花嫁>でのマリーも、彼女のキャラクターにぴったり。親に勧められたイヤな結婚相手を別人に化けて騙し、大好きなハンスと結ばれたいからと一所懸命に頑張る。それなのに、そのハンスから自分は「売り飛ばされた」と知って、彼女はひどく悲しむわけである。実際にはマリーは決して売り飛ばされたりはしておらず、自分だけが秘密の正体を知っているハンスによる、「マリーと一緒になるための愛の計略」が着々と進んでいたわけなのだが、そんな深謀遠慮を知る由もない彼女はひたすら怒って嘆く。で、その時の憤然とした様子が、このローレンガーのキャラによく似合うのである。これは、適材適所の最たる好例と言ってよいだろう。あと欲を言えば、その彼女に袖にされるお間抜け男のヴェンツェル(T)を歌う歌手が、もう少しキャラの立った人だったら最高だったろうなと思う。しかしこれは、望蜀の感あり、かも知れない。

ところで、ローレンガーはいくつか声楽作品の録音にもソロ歌手として参加していた。ジョージ・セルがウィーン・フィルを振ったベートーヴェンの劇音楽<エグモント>全曲(L)もその一つだが、これは私の場合、学生時代にLPでちょっと聴いただけ。声楽パートに関しては、「男性ナレーターのドイツ語が、鮮やかだったなあ」ぐらいの事しかもう思い出せなくなっているので、今回はパス。今手元にあるCDは、ジャン=クロード・アルトマンの指揮によるグノーの<聖チェチーリア荘厳ミサ>(EMI)である。この演奏にも、ローレンガーがソプラノ独唱で出演している。ただ、このCD、録音マイクの位置によるのか、彼女の声はやや引っ込んだところで聞こえる。歌はいつものローレンガー節なのだが、オーディオ的にはちょっと残念な感じだ。ちなみにこの<聖チェチーリア荘厳ミサ>、これはなかなかユニークなミサ曲である。独唱はソプラノ、テノール、バスの三人で、アルト(または、メゾ・ソプラノ)がいない。第4曲「オッフェルトリウム」には歌詞がなく、数分間の器楽演奏だけ。最後が「ドミネ・サルウム」で終わるのもちょっと変ったパターンだが、これは当時のフランスの慣習に従ったもののようだ。(※この点はかつて当ブログでも、ベルリオーズの<荘厳ミサ曲>を扱った際に軽く言及した。Cf.2005年1月29日の記事)音楽的に面白いのは、例えば第3曲の「クレド」。いかにも歌劇<ファウスト>を書いた人らしい壮麗な音楽が響き渡る。それと第1曲「キリエ」の導入部、これまたいかにもオペラ作家らしい“乗せる音楽”が付いていて、「コーラスの人たち、歌いやすいだろうなあ」と思わせるものがある。

【注1】 『指揮者ケンペ』 尾埜善司・著 (芸術現代社) ~140ページ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする