クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

<蝶々夫人>~シノーポリ対カラヤン

2005年08月25日 | 演奏(家)を語る
前回の記事「シノーポリのプッチーニ録音」からの続きである。彼が指揮したプッチーニの歌劇<蝶々夫人>全曲盤(G)で主役のチョーチョーサンを歌っているのは、ミレッラ・フレーニだ。そしてピンカートンがホセ・カレラスで、スズキが大ヴェテランのテレサ・ベルガンサという顔ぶれである。この録音については、主役がフレーニということで、カラヤン&ウィーン・フィルによる2種類の記録、即ちデッカのスタジオ盤と、ジャン=ピエール・ポネルの演出で収録されたユニテル映像盤との比較が、興味深いものと思われる。

カラヤン&ウィーン・フィルの<蝶々夫人>デッカ録音は、LP時代から随分と世評が高い。これぞベストと、絶賛する人も少なくないようだ。しかし、正直言って、私はこのデッカ盤には全く感動出来ない。大きな理由は、二つ。これ見よがしなわざとらしいカラヤンの表現と、やたらガンガン鳴り響くデッカの録音。カラヤンの指揮はダイナミック・レンジの広さと表現の起伏の大きさ、そして精妙な音作りをもって、聴く者を圧倒する。しかし、(少なくとも私の)心には何も響いてこない。デッカの優秀録音によって、耳を抑えたくなるような物凄い音響があちこちで轟く。これを聴きながら私の脳裏に浮かんだ言葉は、“究極の人工美”。つまりこれは、カラヤンという音の天才工芸家が録音スタジオという特殊空間の中で造った、人工美の楽園なのである。

ここでチョーチョーサンを歌っているフレーニは、録音マイクを前にして、彼女が超一流の声楽家であることを証明している。しかし、その歌は感動にまでつながってこない。何だか、精巧に作られたアンドロイドの歌唱を聴かされているような気分になってしまうのだ。有名なアリア「ある晴れた日に」も、最後に子供を抱きしめて歌う別れの歌も、声楽的完成度は極めて高い。でも、それがこちらの心に響くところまでは来ていない、という感じなのである。そこへもってまた、オーケストラがわめき過ぎ。耳を押さえながら、「もう勘弁してくれよ」と言いたくなる。パヴァロッティが演じるピンカートンも、後述するドミンゴほどの感銘は与えてくれない。最後の「バーテルフラーイ!バーテルフラーイ!」の呼び声も何だか、白々しい。―という訳で、カラヤンのデッカ盤、どうも世間で言われているほどに素晴らしいものだとは、私には思えない。

ところが、同じ1974年に製作された映像収録盤は全く、印象が違う。この映像盤の方が主役フレーニの歌唱も、オーケストラの演奏も、その声や響きに血が通っていて大変に深い感動を与えてくれるのである。不思議だが、本当だ。(←この表現に懐かしさを感じる人は、40~50歳代に属する方の一部であろう。)「ある晴れた日に」は勿論のこと、最後に子供に別れを告げる場面の歌も、心からの絶唱になっている。これを聴いてこそ、フレーニが最高のチョーチョーサン歌手であったことが頷けるのだ。しかし、何が違うのだろう?この映像盤だって劇場のライヴ収録ではなく、やはり最初にスタジオで音声だけの録音をしておいて、その後出演者が衣装を着けて、いわゆる“口パク演技”で映像を撮影するという方法を取っているはずのものだ。それなのに、この感銘度の大きな差はいったい何なのか?

一つの理由は、音質にあるのかも知れない。当時の映像収録盤というのは、ハイファイ・ステレオとは言いつつも、概して音声は引っ込み気味だった。この<蝶々夫人>もその例外ではないのだが、それがかえってデッカ盤よりも聴く者の耳にずっと優しい音になっているという好結果を生んだのかも知れない。しかし、そんな事で説明が事足りる訳がない。やはり、演奏自体が違うと言わねばならないような気がするのである。単に「ピンカートン役がパヴァロッティではなく、ドミンゴだ」というだけの違いではなく、もっと根本的に演奏そのものが違うとしか思えないのだ。

そう言えば、このドミンゴのピンカートンも素晴らしい。港ごとに女を作り、チョーチョーサンとも遊び半分に結婚する軽薄なヤンキー、そして最後は自らが行なった行為への激しい後悔に苛まれる米国海軍士官。ピンカートンという男が持つその両面の姿を、彼は見事に演じ切っている。「さようなら、愛の家よ」はまさしく、真に迫った名唱だ。私の感じるところ、デッカ盤のパヴァロッティよりも遥かに、ドミンゴのピンカートンの方が心に迫る。

ただし、映像そのものについて言えば、日本人の目で見ると、ポネル演出にはかなりツライ思いをさせられる。チョーチョーサン自身とその親族、母親、おじの僧侶、彼女に言い寄る金持ちのヤマドリ、いずれもショッキングなまでに奇天烈な姿で登場するのだ。名歌手ルートヴィッヒが演じるスズキも、日本人女性の所作を真似ているらしいのだが、それが何とも珍妙。この映像盤の脇役で納得させてくれたのは、ミシェル・セネシャルが演じた結婚仲介人のゴローぐらい。いかにも太鼓持ちという感じの、“いけずな男”ぶりが絶品だった。そういう訳で、カラヤン&ウィーン・フィルの映像盤<蝶々夫人>は希代の名演奏ではあるが、映像はなるべく観ないで、という条件付きにしたいところである。(※私の場合、二度目以降はモニターの上からバスタオルを垂らして画面を隠し、一番下の字幕だけが見えるようにして鑑賞した。)


さて、同じフレーニ主演による1987年のシノーポリ盤<蝶々夫人>(G)。これはまず、録音が凄い。と言うより、ちょっとガンガン鳴りすぎ。うかつにボリュームを大きくして聴いていると、耳が痛くなるような音だ。特に終曲はかなり音量を絞らないと、神経の方がまいってしまう。シノーポリならではの楽譜の抉り出しは、ここでも例によって凄いのだが、それがやかましい音響という結果になってしまっているのが残念。しかし一方で、チョーチョーサンとスズキによる「桜の二重唱」など、テンポを落として旋律美に耽溺し始めるあたりが、いかにもシノーポリ節という感じで面白かった。

ここでのフレーニの歌は、デッカ盤でのアンドロイド歌唱よりはずっと人間的で好ましいものだ。しかし、同じカラヤンの映像盤で聴かれた若々しい抒情のみずみずしさと、それに力強さを兼ね備えた名唱の方が、私にはさらに魅力的に感じられる。ピンカートン役のカレラスはちょっと、わめきすぎだと思う。ヴェルディ歌劇での英雄的な役柄(例えば<スティッフェリオ>のタイトル役などは思いっきり似合っていて、彼は映像付きで素晴らしい名演を記録している)ならともかく、このピンカートンまでそんなに力まなくてもいいでしょうって・・。

それやこれやで、必ずしもそれぞれの作品のベストであるみたいな言い方は出来ないものの、シノーポリのプッチーニはどれも私にとって大変に興味深いものばかりだったのである。そういう捉え方をしている人もいるんだな、ぐらいにお受け取りいただけたらと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする