クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

若きサヴァリッシュのバイロイト・ライヴ(1)~<さまよえるオランダ人>

2008年05月19日 | 演奏(家)を語る
先頃語ったマスネの歌劇<ドン・キショット>から、私はハンガリーのある大作曲家のエピソードを連想した。で、その人の代表作を次に採りあげてみようかと考えていたのだが、その前に、歌劇<ル・シッド>の記事の中で軽く触れていた「サヴァリッシュ若き日のバイロイト・ライヴ」について語ってみることにしたい。そう考え直すことになったのは、バイロイト録音ばかりを集めたCD33枚組の大型廉価セットをつい先日購入したからである。これは、サヴァリッシュの指揮による<さまよえるオランダ人><タンホイザー><ローエングリン>のほか、ヴァルヴィゾの<ニュルンベルクのマイスタージンガー>、ベームの<トリスタンとイゾルデ>と《ニーベルングの指環》、そしてレヴァインの<パルシファル>といった錚々たる全曲録音が収められた“超お買い得”ボックスだ。

―という訳で、今回はまず、<さまよえるオランダ人>から。

● <さまよえるオランダ人> (1961年)

若きサヴァリッシュがバイロイトで指揮した<オランダ人>には、ジョージ・ロンドンの主演による1959年のライヴCDなども出ているようだが、今回のボックス・セットに入っているのは、LP時代からよく知られた1961年のステレオ・ライヴ盤である。(※このCDは音圧が低く作られているようで、アンプのボリュームをいつもよりかなり大きめにして聴く必要があるけれども、記録されている音自体は非常に良質なものである。)

サヴァリッシュの指揮は速めのテンポでダイナミックに音楽を展開させ、ワグナーのスコアからとても清新な響きを引き出している。クナッパーツブッシュがかつて聞かせたような恐ろしい低音などは出てこないが、若々しい荒っぽさが小気味良い。場所によっては、指揮者があまりにもテンポを煽るため、音楽がつんのめって突進し、アンサンブルが殆ど崩壊しているようなところもある。そういう場面では、「うひゃひゃ、よくやるなあ」と思わず苦笑いしてしまうのだが、実はこれが楽しいのである。荒ぶる若さ!それがこの演奏の魅力なのだ。

オランダ人役のフランツ・クラスはバスの役を中心に歌っていた人だけあって、声の重量感については文句なし。ベームのバイロイト盤で同役を歌っているトマス・ステュアートみたいな、“へらちょんぺ”な声でないのがうれしい。が、肝心な歌の方はどうも今ひとつで、いささか感銘の薄いものに終わっている。ダーラント役のヨゼフ・グラインドルは、声が衰えた分、巧みな性格表現で聞かせる。「へっへっへっ」と、まるで《指環》のアルベリヒを思わせるような笑い方をして、ダーラントという人物の俗っぽい側面をよく描き出している。

あと、意外に好感を持てるのが、エリックを歌うフリッツ・ウール。この人はかなり強い声を持った歌手ではあるのだが、トリスタンとかジークフリートまでは似合わないというレベルの人である。ここで歌っているエリックあたりがやはりぴったり来るようで、歌のうまい下手はまた別として、イメージ的にしっくりする。

しかし何と言っても、ここではゼンタを歌っているアニア・シリアが一番強い印象を残す人であると言うべきだろう。この稀代の名ソプラノ歌手の美質が何であったかを端的に表現するなら、「英雄的側面を強調するためのドラマティックな声、そしてそれとは逆に、女性的な優しさを歌いだすためのリリックな声―この相反する二つの要素を彼女は絶妙なバランスで兼備していた」ということになろうかと思う。ゼンタという役をとことん“英雄的”に歌った歌手はおそらく、(当ブログでかつて語った)アストリッド・ヴァルナイだったんじゃないかと思う。しかしその偉大な歌唱は同時に、若い娘らしい可憐さという側面を捨て去ることにもなっていた。当ライヴで歌っているシリアの場合、ヴァルナイほどではないにしても十分にドラマティックであり、その一方で、リリックな響きの声がある種の可憐さを表現する上で大きな貢献を果たしているのである。

(※彼女のゼンタ歌唱としては、オットー・クレンペラーの指揮によるEMI・スタジオ録音盤の方がより安定したものであったと記憶するが、そちらを聴いたのは古いLP時代のことなので、ちょっと今は断言する自信がない。)

ところで、知る人ぞ知る話だが、このアニア・シリア嬢を発見し、彼女をバイロイトへと誘(いざな)ったのは他でもない、若き日のサヴァリッシュその人であった。第三文明社から1989年に出版された『音楽と我が人生~サヴァリッシュ自伝~』の131~132ページに、おおよそ次のような事が書かれている。

{ レオニー・リザネックが1960年、<さまよえるオランダ人>の再公演で歌わないということになったので、私はアニア・シリアをバイロイトに連れていきました。彼女は当時20歳で、フランクフルトの劇場で歌っていました。ヴィスバーデンで私のオーディションを受けたとき、彼女は夜の女王を歌いました。これは、センセーショナルな発見でした。私はこの役を初めて、ドラマティックなコロラトゥーラの声で聴くことが出来たのです。彼女の歌は攻撃的にエスカレートしていき、よく普通に聴かれるコロラトゥーラの軽いころがしなど微塵も感じさせなかったのです。

そこで私はヴィーラントに、彼女の声を一度聴くように勧めました。アニア・シリアと私はバイロイトに向かい、彼女はそこでオーディションを受けました。ヴィーラントは最初の瞬間から、演出家としても彼女が気に入ったように見えました。・・・ヴィーラントは即座に彼女を採用しました。そして1960年、彼女のゼンタはセンセーショナルなバイロイト・デビューとなったのです。彼女の声が持つ集中力とその演技の才能により、アニア・シリアは次第にヴィーラント・ワグナーの理想像となっていきました。 }

その後、大作曲家の孫がどれほどこのシリア嬢に入れ込むようになったか、そして何がきっかけでサヴァリッシュがバイロイトを去ることになったか、そのあたりについては次回改めて補うことにして、今回の記事は、この清新な<オランダ人>演奏について、青年サヴァリッシュと大家クナッパーツブッシュの間に起こったちょっと面白い出来事を一部書き出してみることで、締めくくりにしようかと思う。以下は、上記『音楽と我が人生』の117~118ページに出ている文章からの編集・抜粋である。

{ 私はミュンヘンで、<さまよえるオランダ人>を見たことがありました。クナッパーツブッシュがかなりゆっくりしたテンポでありながら、恐ろしく凝縮された指揮をしたのを記憶していました。<さまよえるオランダ人>のゲネ・プロをしているとき、そのクナッパーツブッシュが、私が一体どんなことをやろうとしているか聞きにきているとのことでした。

残る手はただ一つ、と私は考えました。ゲネ・プロが終わったら、老マイスターにつかまらないうちに、こっそり逃げ去ってしまうしかないと。クナッパーツブッシュが非常に厳格で、ストレートに意見を言う人だと知っていましたから。私は最後の幕が終わると、できるだけ急いでオーケストラ・ボックスから出て、幅の広い高い階段を上がり、なるべく誰にも見られないように自分の部屋に消えてしまおうとしました。・・・ところが突然、階段の上にクナッパーツブッシュの巨体が私を待ち構えているのが見えたのです。彼は静かに落ち着いて、私が上がってくるのを待っていました。・・・どうしても、彼の前を通らねばなりません。彼はまじろぎもせず、私を見つめています。私はついでのように挨拶して、なんとかそこを通り過ぎてしまおうとしました。

すると彼はただひと言、「ブラヴォー!」と言ったのです。・・・まさしく、このひと言こそ、私が望み得る最高の賞賛でした。まして<オランダ人>の私の新しいアイディアについてそう言ってくれたのですから、まさに驚きでした。・・・これほどに私を誇らしく、幸せにしてくれたひと言はありませんでした。この五秒間の出会い以来、私はクナッパーツブッシュと非常に良い関係を持つようになりました。私たちは会うたびに、音楽の話だけでなく、そのときのお互いの関心事について話をするようになったのです。クナッパーツブッシュは、実に偉大な人格者でした。 }

―次回も、若きサヴァリッシュのバイロイト・ライヴを巡るお話。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『ドン・キホーテ』と<ドン... | トップ | 若きサヴァリッシュのバイロ... »

コメントを投稿