先頃ラフマニノフの<ピアノ協奏曲第3番>についての聴き比べ記事を書いた際、最後に登場したベルマンのところで、「ジュリーニとのリスト」に軽く触れていた。今回はそこから話題を続けて、リストの<ピアノ協奏曲第1番>の聴き比べ感想文を書いてみようかと思う。
●S・リヒテル(Pf)、K・コンドラシン&ロンドン交響楽団(1961年7月・フィリップス録音)
これ、学生時代にフォンタナ・レコードというLPの廉価盤シリーズで持っていた。縦書きの日本語能書きがダラダラと書かれたジャケットに特徴があって、当時の盤友が、「このシリーズのジャケットって、汚いよねえ」といつも苦笑いしていた。いかにも安物レコードという感じで、盤質も良くなかった。含まれていた音源については、玉石混交。平凡な演奏家のどうでもいい録音も多かった中、当リヒテル&コンドラシンのリストをはじめ、シュタルケル&ドラティのドヴォルザーク(かつて当ブログでもちょっと言及したことがある)、ポール・パレーのドビュッシー管弦楽曲集(←これの良さが分かる人は通!w )、コンヴィチュニー&ゲヴァントハウス管のシューマン交響曲集(指揮者は平凡だが、オケの響きが魅力的)等、かなりの逸品といえる物もそれなりにあった。リヒテル盤のジャケットにあった能書きの一部は、今でもおぼろげながら記憶している。曰く、「リストの高弟だったエミール・フォン・ザウアーは、『我が師リストは決して、テンポを急がなかった』と言っています。リヒテルはまさに、そのような堂々たるテンポで・・」といった感じの文章だったと思う。今私が持っているのは24ビット・リマスターのCDで、フォンタナ“きたねえ(笑)”レコードとは比較を絶するような良い音が聴けるディスクだ。(※尤もこのCDシリーズは、クナ先生の1962年盤<パルシファル>と同様、音の情報量が増えている分、ヒスノイズも大きくなっているのが玉に疵ではある。)
リヒテルのピアノは豪快にして雄大、なお且つ第2楽章などで聴かれるデリケートな味わいにも不足はなく、およそこの曲に求められるピアノ表現のほぼすべてが網羅されたものと言ってよいと思う。コンドラシンの指揮も、いつもながら素晴らしい。丁寧に独奏者と合わせながら、スケールの豊かな伴奏を作り上げている。ピアノ、オーケストラともども、この曲のスタンダードと言ってよいであろう稀有の名演だ。
(※参考までに、リヒテルがソロを弾いた同曲の録音としては、「プラハの春」音楽祭ライヴというのもある。これは1954年6月3日にスメタナ・ホールで行われた演奏会の記録とされるもので、共演はカレル・アンチェル&チェコ・フィルである。古いモノラル録音だが音質はそんなに悪くはなく、当時のリヒテルの凄まじい打鍵がよく伝わってくる。一発ライヴということもあって、全体に荒々しい感じの演奏だ。そのため、第2楽章でのデリカシーは上記フィリップス盤に及ばず、第3楽章では勢い余ってミス・タッチも少なからず出てくる。しかし、「こまけえことは、いいんだよ」という実演ならではのノリが、聴き手をぐいぐいと引きつける。あまり一般向けの音源ではないが、これを生で聴いた人は相当な感銘を受けただろうなと思う。)
●M・アルゲリッチ(Pf)、C・アバド&ロンドン交響楽団(1968年2月・グラモフォン録音)
上記リヒテル盤と並んで、LP時代にはこの曲の代表的な名演と言われていたもので、宇野功芳氏も絶賛していた。氏曰く、「アルゲリッチのは、理想的な名演と言うべきであろう。全身これ音楽といった体当たり的な情熱と冴えた閃き、心ときめく詩情とデリケートな感受性、チャーミングなみずみずしさ、そしてアバドの指揮、ここではすべてが見事だ」。(『新編・名曲名盤500 』 1987年・音楽之友社~170ページ)
しかし、正直言って、そこまで言うほどこれが素晴らしい物だとは、私には思えない。勿論、優れて美しい名演であることに何の異存もないのだが、ここには大事な要素が決定的に欠けているように感じられてしまうのだ。その原因の一つは、アバドの指揮にある。往々にして知が勝ち過ぎた音楽を作りがちなミラノの秀才指揮者は、ここでも決して羽目を外すことのない端正な音楽を造型している。それがある種”箱庭”的な空間を作り出していて、その枠の中で若き才媛ピアニストが多彩な表現を駆使しているといった風情なのである。つまり、この演奏、いささかスケールが小さいのだ。やはりこの曲には、「テキ屋の元締め的な、いかがわしい磊落(らいらく)さ」を、私は求めたいのである。
(※ちなみに、同曲を得意とするアルゲリッチには、当アバド盤の他にも、映像ソフトを含め複数の別音源があるようだ。とりあえず私が聴いて知っているのは、C・デュトワ&モントリオール響との共演による1998年10月のEMI録音。これはアルゲリッチのピアノに大きなスケール感と豪快さがあり、伴奏指揮のデュトワも立派な背景を築いているので、アバド盤よりもずっとリストらしい演奏になっているように思える。細かいところまで神経が行きわたったアルゲリッチ若き日のみずみずしさを堪能したい向きにはアバド盤が良いだろうが、より奔放で闊達なピアノを味わいたい人には、デュトワ盤の方が面白く感じられることだろう。)
●S・フランソワ(Pf)、C・シルヴェストリ&フィルハーモニア管弦楽団(1960年6月・EMI録音)
知る人ぞ知る、フランスの鬼才サンソン・フランソワ。ちょっと前の時代になるが、類稀なる天才ピアニストとして名を馳せた人だ。このCDはピアノの音像がかなり大きく録音されているので、聴く人によってはちょっと音響バランスの点で抵抗が感じられるかもしれない。が、その辺の好悪を別とすれば、終始迫力に満ちた怒涛のピアノ・サウンドを楽しむことができる。リヒテル&コンドラシン盤も、「録音マイクが少し、ピアノに近いかな」と思われたが、当フランソワ盤はもっと露骨にオンマイクである。
ここで聴かれるピアノ・ソロも全編豪快の一語だが、とりわけ凄いのは、やはり第3楽章の後半部だろう。天才ピアニストが物凄いテンポと迫力で煽るように爆走し、指揮者がまたそれに負けじと煽り返すように突っ走る。この凄惨な(笑)音の風景には、聴きながら思わず笑ってしまうほどだ。終楽章のエンディング部分が一番こじんまりしてつまらないのはアルゲリッチ&アバド盤だが、逆に一番面白いのは当フランソワ盤というわけである。
●G・シフラ(Pf)、G・シフラJr.&パリ管弦楽団(1969年4月4日・EMI録音)
リスト弾きとして忘れてはならないピアニストの一人に、作曲家と同郷の名手ジョルジ・シフラがいる。周知の通りかもしれないが、この人のピアノ演奏というのはあっけらかんとした超絶テクニックの展示会になりがちで、内容空疎な音の羅列に終始するようなものが多かった。しかし、そんな彼が1969年に行なった当協奏曲録音では、かなり内省的な表現も見られ、いつものこの人のイメージとは一味違う印象を与える演奏になっている。物々しい第1楽章の冒頭部に続いてピアノがしばし長いソロを弾くところ、あるいは第2楽章のあちこちで、名手はぐっとテンポを落とし、深く物想いに沈んでいくような表情を見せるのである。
名ピアニストの息子であるジョルジ・シフラJrが務める伴奏指揮も良い。パリ管というよりフランス国立管じゃないかと思わせるような暗い音色をオーケストラから引き出しているのがユニークで、ドライヴの腕前も上々だ。父親のピアノに合わせて緩急自在、息の合ったところを見せている。特に終楽章結尾部のド派手な盛り上げ方はゴキゲンで、上記フランソワ&シルヴェストリ盤に次ぐ出来栄え(笑)を見せる。なお、ついでの話ながら、このCDは大型コンポよりもミニコンポで聴いた方が、音に関する不満をあまり感じないで済む。大型コンポで聴くと、ピアノの音がいささかパワー不足に感じられてしまう嫌いがなきにしもあらずなのだ。
●L・ベルマン(Pf)、C・M・ジュリーニ&ウィーン交響楽団(1976年・グラモフォン録音)
がっしりと引き締まったオーケストラ伴奏を背景に、超絶技巧でならした名ピアニストが強靭なタッチで弾き始める。第1楽章冒頭のピアノ登場部分など、ワイヤーがビンビン震えて唸っているのがよくわかる。ただ、その後に続く演奏は案外、それほどでもない。今回の記事を書くにあたって、本当に久しぶりにこれを聴き直したのだが、昔LPで聴いた頃とはだいぶ違った感想を持つことになって、今ちょっと戸惑っている。これまで並べてきた他の大ピアニストたちによる名盤群の中に入ってしまうと、当ベルマン盤も、「普通に良い演奏だね」という程度のものに感じられてしまうのである。
で、ちょっと考えたのだが、その理由の一つとして、「この人の弱音は、つまらない」という点が指摘できるのではないかという気がしている。鋼がしなるようなフォルテ、あるいはフォルティッシモについては言うこと無しなのだが、ピアノあるいはピアニッシモで歌いだされるはずの内面的、抒情的な部分になると、どうもベルマンの演奏は薄味なように思えてしまうのだ。そう言えば、当リストと並ぶ彼の有名なグラモフォン録音としてカラヤン&ベルリン・フィルとのチャイコフスキー<ピアノ協奏曲第1番>というのもあるが、これがまた実に退屈な演奏で、彼の弱音は(少なくとも、私には)何も語りかけてこないのである。そしてオーケストラのいたずらに豪勢なサウンドが、その空虚さにますます拍車をかけるといった具合なのだ。アバドと録音したラフマニノフの名演は、ひょっとしたら彼の良い側面ばかりがうまく伝わってきた幸運な一例に過ぎなかったのだろうか・・。
―今回は、ここまで。
●S・リヒテル(Pf)、K・コンドラシン&ロンドン交響楽団(1961年7月・フィリップス録音)
これ、学生時代にフォンタナ・レコードというLPの廉価盤シリーズで持っていた。縦書きの日本語能書きがダラダラと書かれたジャケットに特徴があって、当時の盤友が、「このシリーズのジャケットって、汚いよねえ」といつも苦笑いしていた。いかにも安物レコードという感じで、盤質も良くなかった。含まれていた音源については、玉石混交。平凡な演奏家のどうでもいい録音も多かった中、当リヒテル&コンドラシンのリストをはじめ、シュタルケル&ドラティのドヴォルザーク(かつて当ブログでもちょっと言及したことがある)、ポール・パレーのドビュッシー管弦楽曲集(←これの良さが分かる人は通!w )、コンヴィチュニー&ゲヴァントハウス管のシューマン交響曲集(指揮者は平凡だが、オケの響きが魅力的)等、かなりの逸品といえる物もそれなりにあった。リヒテル盤のジャケットにあった能書きの一部は、今でもおぼろげながら記憶している。曰く、「リストの高弟だったエミール・フォン・ザウアーは、『我が師リストは決して、テンポを急がなかった』と言っています。リヒテルはまさに、そのような堂々たるテンポで・・」といった感じの文章だったと思う。今私が持っているのは24ビット・リマスターのCDで、フォンタナ“きたねえ(笑)”レコードとは比較を絶するような良い音が聴けるディスクだ。(※尤もこのCDシリーズは、クナ先生の1962年盤<パルシファル>と同様、音の情報量が増えている分、ヒスノイズも大きくなっているのが玉に疵ではある。)
リヒテルのピアノは豪快にして雄大、なお且つ第2楽章などで聴かれるデリケートな味わいにも不足はなく、およそこの曲に求められるピアノ表現のほぼすべてが網羅されたものと言ってよいと思う。コンドラシンの指揮も、いつもながら素晴らしい。丁寧に独奏者と合わせながら、スケールの豊かな伴奏を作り上げている。ピアノ、オーケストラともども、この曲のスタンダードと言ってよいであろう稀有の名演だ。
(※参考までに、リヒテルがソロを弾いた同曲の録音としては、「プラハの春」音楽祭ライヴというのもある。これは1954年6月3日にスメタナ・ホールで行われた演奏会の記録とされるもので、共演はカレル・アンチェル&チェコ・フィルである。古いモノラル録音だが音質はそんなに悪くはなく、当時のリヒテルの凄まじい打鍵がよく伝わってくる。一発ライヴということもあって、全体に荒々しい感じの演奏だ。そのため、第2楽章でのデリカシーは上記フィリップス盤に及ばず、第3楽章では勢い余ってミス・タッチも少なからず出てくる。しかし、「こまけえことは、いいんだよ」という実演ならではのノリが、聴き手をぐいぐいと引きつける。あまり一般向けの音源ではないが、これを生で聴いた人は相当な感銘を受けただろうなと思う。)
●M・アルゲリッチ(Pf)、C・アバド&ロンドン交響楽団(1968年2月・グラモフォン録音)
上記リヒテル盤と並んで、LP時代にはこの曲の代表的な名演と言われていたもので、宇野功芳氏も絶賛していた。氏曰く、「アルゲリッチのは、理想的な名演と言うべきであろう。全身これ音楽といった体当たり的な情熱と冴えた閃き、心ときめく詩情とデリケートな感受性、チャーミングなみずみずしさ、そしてアバドの指揮、ここではすべてが見事だ」。(『新編・名曲名盤500 』 1987年・音楽之友社~170ページ)
しかし、正直言って、そこまで言うほどこれが素晴らしい物だとは、私には思えない。勿論、優れて美しい名演であることに何の異存もないのだが、ここには大事な要素が決定的に欠けているように感じられてしまうのだ。その原因の一つは、アバドの指揮にある。往々にして知が勝ち過ぎた音楽を作りがちなミラノの秀才指揮者は、ここでも決して羽目を外すことのない端正な音楽を造型している。それがある種”箱庭”的な空間を作り出していて、その枠の中で若き才媛ピアニストが多彩な表現を駆使しているといった風情なのである。つまり、この演奏、いささかスケールが小さいのだ。やはりこの曲には、「テキ屋の元締め的な、いかがわしい磊落(らいらく)さ」を、私は求めたいのである。
(※ちなみに、同曲を得意とするアルゲリッチには、当アバド盤の他にも、映像ソフトを含め複数の別音源があるようだ。とりあえず私が聴いて知っているのは、C・デュトワ&モントリオール響との共演による1998年10月のEMI録音。これはアルゲリッチのピアノに大きなスケール感と豪快さがあり、伴奏指揮のデュトワも立派な背景を築いているので、アバド盤よりもずっとリストらしい演奏になっているように思える。細かいところまで神経が行きわたったアルゲリッチ若き日のみずみずしさを堪能したい向きにはアバド盤が良いだろうが、より奔放で闊達なピアノを味わいたい人には、デュトワ盤の方が面白く感じられることだろう。)
●S・フランソワ(Pf)、C・シルヴェストリ&フィルハーモニア管弦楽団(1960年6月・EMI録音)
知る人ぞ知る、フランスの鬼才サンソン・フランソワ。ちょっと前の時代になるが、類稀なる天才ピアニストとして名を馳せた人だ。このCDはピアノの音像がかなり大きく録音されているので、聴く人によってはちょっと音響バランスの点で抵抗が感じられるかもしれない。が、その辺の好悪を別とすれば、終始迫力に満ちた怒涛のピアノ・サウンドを楽しむことができる。リヒテル&コンドラシン盤も、「録音マイクが少し、ピアノに近いかな」と思われたが、当フランソワ盤はもっと露骨にオンマイクである。
ここで聴かれるピアノ・ソロも全編豪快の一語だが、とりわけ凄いのは、やはり第3楽章の後半部だろう。天才ピアニストが物凄いテンポと迫力で煽るように爆走し、指揮者がまたそれに負けじと煽り返すように突っ走る。この凄惨な(笑)音の風景には、聴きながら思わず笑ってしまうほどだ。終楽章のエンディング部分が一番こじんまりしてつまらないのはアルゲリッチ&アバド盤だが、逆に一番面白いのは当フランソワ盤というわけである。
●G・シフラ(Pf)、G・シフラJr.&パリ管弦楽団(1969年4月4日・EMI録音)
リスト弾きとして忘れてはならないピアニストの一人に、作曲家と同郷の名手ジョルジ・シフラがいる。周知の通りかもしれないが、この人のピアノ演奏というのはあっけらかんとした超絶テクニックの展示会になりがちで、内容空疎な音の羅列に終始するようなものが多かった。しかし、そんな彼が1969年に行なった当協奏曲録音では、かなり内省的な表現も見られ、いつものこの人のイメージとは一味違う印象を与える演奏になっている。物々しい第1楽章の冒頭部に続いてピアノがしばし長いソロを弾くところ、あるいは第2楽章のあちこちで、名手はぐっとテンポを落とし、深く物想いに沈んでいくような表情を見せるのである。
名ピアニストの息子であるジョルジ・シフラJrが務める伴奏指揮も良い。パリ管というよりフランス国立管じゃないかと思わせるような暗い音色をオーケストラから引き出しているのがユニークで、ドライヴの腕前も上々だ。父親のピアノに合わせて緩急自在、息の合ったところを見せている。特に終楽章結尾部のド派手な盛り上げ方はゴキゲンで、上記フランソワ&シルヴェストリ盤に次ぐ出来栄え(笑)を見せる。なお、ついでの話ながら、このCDは大型コンポよりもミニコンポで聴いた方が、音に関する不満をあまり感じないで済む。大型コンポで聴くと、ピアノの音がいささかパワー不足に感じられてしまう嫌いがなきにしもあらずなのだ。
●L・ベルマン(Pf)、C・M・ジュリーニ&ウィーン交響楽団(1976年・グラモフォン録音)
がっしりと引き締まったオーケストラ伴奏を背景に、超絶技巧でならした名ピアニストが強靭なタッチで弾き始める。第1楽章冒頭のピアノ登場部分など、ワイヤーがビンビン震えて唸っているのがよくわかる。ただ、その後に続く演奏は案外、それほどでもない。今回の記事を書くにあたって、本当に久しぶりにこれを聴き直したのだが、昔LPで聴いた頃とはだいぶ違った感想を持つことになって、今ちょっと戸惑っている。これまで並べてきた他の大ピアニストたちによる名盤群の中に入ってしまうと、当ベルマン盤も、「普通に良い演奏だね」という程度のものに感じられてしまうのである。
で、ちょっと考えたのだが、その理由の一つとして、「この人の弱音は、つまらない」という点が指摘できるのではないかという気がしている。鋼がしなるようなフォルテ、あるいはフォルティッシモについては言うこと無しなのだが、ピアノあるいはピアニッシモで歌いだされるはずの内面的、抒情的な部分になると、どうもベルマンの演奏は薄味なように思えてしまうのだ。そう言えば、当リストと並ぶ彼の有名なグラモフォン録音としてカラヤン&ベルリン・フィルとのチャイコフスキー<ピアノ協奏曲第1番>というのもあるが、これがまた実に退屈な演奏で、彼の弱音は(少なくとも、私には)何も語りかけてこないのである。そしてオーケストラのいたずらに豪勢なサウンドが、その空虚さにますます拍車をかけるといった具合なのだ。アバドと録音したラフマニノフの名演は、ひょっとしたら彼の良い側面ばかりがうまく伝わってきた幸運な一例に過ぎなかったのだろうか・・。
―今回は、ここまで。
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