クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

<曼殊沙華(ひがんばな)>

2004年12月06日 | 作品を語る
先頃語った<若き恋人たちへのエレジー>の中に、エーデルワイスの花を摘みに行く、という箇所があったが、その「花を摘みに」という行為について、おそらく最も怖い映像を聴く者の心に喚起する作品は、山田耕筰の歌曲<曼殊沙華(ひがんばな)>ではないかという気がする。以下は、その歌詞となっている北原白秋の詩の一節である。(※ブログ主が現代仮名遣いに修正。)

GONSHAN GONSHAN どこへゆく?
赤い、お墓のひがんばな、ひがんばな
きょうも手折りに来たわいな
GONSHAN GONSHAN 何本か
地には七本、血のように
血のように
ちょうどあの児の年の数

この詩はまだ続くのだが、どうもこの女性、普通ではなさそうである。一つの有力な説は、「子供を亡くして発狂してしまった若い母親が、お墓に彼岸花を摘みに来る」というものだが、何ともぞっとさせられる解釈である。

出だしの一節は低くつぶやき気味に始まるこの歌、「今日も手折りに」の部分でいきなり音階を駆け上り、尋常でない精神状態を示唆しているようだ。私がかつて持っていたCDでこれを歌っていた米良美一は、まさにこの狂気説による解釈を具現化してくれたものであった。しかし一方、藍川由美や鮫島有美子は「この女性は、狂っているわけではないと思う」という路線での歌唱をなさっているようだ。(と言っても、私はそのお二人の歌唱については未聴なので、何とも感想は述べられない。)

この詩が描いたものが実際のところ何であるのかは詳(つまび)らかでないのだが、私は米美氏の表現を高く買う。格調ある歌のテクスチュアの中に狂気を忍ばせた極めて芸術性の高いもので、男と女の両方の声域を縦横に行き来できるカウンタータナーにして初めて実現したこの世界は、詩の背景をめぐる事実の詮索を超越した、ある侵しがたい領域にまで達していると思われるからである。(※現在は米良氏のベスト・アルバムという形で、あの『もののけ姫』の主題歌等と組んだものが発売されているようなので、これからという方は、そちらがお得かもしれない。)

山田耕筰の歌曲といえば、夕焼け小焼けの<赤とんぼ>であったり、<この道>は、いつか来た道であったりと、多くの日本人にとって心のふるさとになっているような通俗的な作品が有名なのだが、このような正真の芸術歌曲も存在する。また一方、北原白秋の詩の中には、『たそがれどきは』のようなある種耽美的な怪奇趣味に近い作品もあり、芸術家の一筋縄でない多様な側面を見るにつけ、その奥深さにしばし声を失って立ちすくむような思いにとらわれることがある。

(PS) 新興レーベルの腕利きたち

米良美一の存在とその芸術性をいち早く認め、この<曼殊沙華>も含めた日本歌曲集アルバムのCD化を実現したのはスウェーデン・BISレーベルであった。シベリウスの自演録音の発売権を獲得したOndineや、 クナッパーツブッシュの1951年バイロイト・ライヴ<神々の黄昏>のCD化を実現したTestamentを好例とするように、 新興レーベルの社長たちには辣腕の猛者が少なくないが、BISレーベルの社長さんもかなりの慧眼を持った人物でおられるようだ。
コメント
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