カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

キャベツはオオカミ少年

2011-01-15 | 雑記
キャベツはオオカミ少年

 面白い。
 しかしながら実際に被害を受けているんだから狼少年と言えるのかどうかはちょっとだけ疑問ではある。本当にハチを意思をもって呼んでいるとしたら…。なんでも擬人的に解釈するのはよくないが、そういうものって結構他にもあるのかもしれないですね。
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今年(昨年)を振り返る⑮知っておくとか、わきまえるとか、編

2011-01-14 | 読書
今年(昨年)を振り返る⑮
知っておくとか、わきまえるとか、編
 自己中心的な僕のような人間に言われたくないかもしれないが、自分の視点からだけでは世の中のことは分かり得ない。しかしめんどくさいようだが、自分が最終的に分からなければ、世界は勘違いしたまま理解されているわけだ。つまり相対的な存在であるはずの社会は、自分の頭の中にあるにすぎない。だからこそ、人は自分の頭を鍛えるしかないのだと思う。少なくともそうしてくれないと、廻りの人には迷惑である。そのような自分の頭のためにもお勧めの本を読んでもらおう。最終的には自分のためになるので、礼には及ばないが、ありがたがるように。

「関係の空気」「場の空気」/冷泉彰彦著(講談社現代新書)
 僕が空気を読めない人間であるせいか、このような問題はちょっとばかり分かりにくかった。厳密には僕にだって空気がまったく読めないわけではないのだが、自分なりに駄目だと思ったら、空想の世界に旅立ったり、早々に見切って退席してしまう性格だからだろう。もちろん関係性によってスタイルを変えざるを得ないということも理解しているし、そういうものもそれなりに利用しながら話を進めていく術にも対応しながら生きているんだろうと思う。日本人であることからは逃れられない。しかし、村社会はすでに変貌してきているのではなかろうか。


愛の法則/米原万里著(集英社新書)
 英語偏重の日本の国際化できていない感覚が、イラつきを持って理解できる。しかし残念ながら英語偏重の本人さんたちには、たぶんわからないことかもしれない。彼らは英語に頼ることで国際感覚を失っているから。
 通訳ということの分裂症的苦悩や、男女というものについても考えさせられる。分かりあえるって難しいことだが、伝わる内容が一致できないということでは、たぶん無いのだろう。人間はコミュニケーションを求めてやまない生きもの、らしい。
 プロとしての仕事の考え方や、勉強をするうえで有用な心構えも身につけることができる(たぶん)。今更ながら、もう少し長生きして欲しかった人である。


日本辺境論/内田樹著(新潮新書)
 内田先生の話は笑いながら読むしか無いと思う。もちろん素直に読んで笑ってしまうのでただ読めばいいということなんだが、いろいろ考えさせられる上に、なるほどと腑に落ちる。なんかちょっとばかし眉つばのようなところも無いではないが、しかしやはりそういうものかもしれない。それにいくら専門家が口角泡を飛ばして議論していることでも、このような考えをいったん認めてしまうと、なんだか精神衛生上落ち着いたりもする。そういう潔さも含めて、(中には怒る人もいるかもしれないが)読んで笑ってしまおう。そうしてそれが日本人の生きる道なのだ。


理性の限界/高橋昌一郎著(講談社現代新書)
 ゲームとして理論の組み立てや考え方がよくわかる。文章はシンポジウムというか疑似討論方式になっており、その臨場感のようなものに任せて読み進むと、めんどくさい論理も何となく理解できていくように思える。
 いろいろ分かって目から鱗ではあるけれど、公平な選択なんてありえないことや、科学の限界のあることや、確実に分かるものが存在しないことや、どちらでもありうるというものの状態や、数学でさえ不確実であることや、なんだか哲学めいたことにも首を突っ込んでしまい、混乱する。人間社会の確実性を求めていきたいところが、物事は平行線で終わることも自然かもしれないとも思わせられるのであった。
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タイガーマスク現象、企業にも拡大

2011-01-14 | 時事
タイガーマスク現象、企業にも拡大

 秘密は企業としては不適切、というのは使える。今のうちに乗り遅れないことが肝要になるだろう。

 しかしながら報道されるから(そのような思惑を期待しているのは悪いことではないが)ということでこのような行為に及ぶのは、やはり広報活動なのではないかとは思う。結果的に善意だからいいということとは複雑に違う気がする。
 まあ、誰かがそのうちなんか言いだすでしょう。
 できればこの機会に、養護施設のような対象だけでなく、善意の受け皿を適切に紹介できる存在こそ必要な気がしている。そのようなサポートこそ、報道機関は目を配るべきだろう。
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辛抱強い人は…

2011-01-14 | 雑記
辛抱強い人は、頭の中が違う

 待つことの期待値でそうなるということなのだろうか。一般的にはじっと待っているより動きまわっているほうがセロトニンが分泌されやすそうなんだが…。

 田舎で生活していて一番ありがたいのは、待たなくていいことである。人が集まると待つことが多くなるので当たり前だが、僕のようなせっかちには都市生活はつらい。おかげでちっとも辛抱強くない。老後には都市部がいいかと思うが、若いうち(その部類には既に入ってないが、精神的に未熟なので)には都会はうんざりである。
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今年(昨年)を振り返る⑭ 娯楽作編

2011-01-13 | 映画
今年(昨年)を振り返る⑭
娯楽作編

 映画は娯楽だ、というのはその通りなんだけど、意外と単純にそのような作りの物は少なかったりする。または、そんなような映画を選んで観てないということもありそうだ。日本で配給される映画のほとんどは、子供向けか、何故かお涙ちょうだい感動巨編だったりする。それは需要に沿っているという言い方もできようが、はっきり言って僕は不満だ。しかしながら、そういう思惑でありながら、ちゃんとやっぱり面白い、敵ながらあっぱれ、という映画もあるわけで、個人的にはそのような屈折した感情はあるものの、曲がりくねって素直に面白いお勧め映画の何本かである。


女帝エンペラー/フォン・シャオガン監督
 迫力もあるし映像も奇麗。しかしながらちょっと残酷ではあるな。剣が簡単に人に刺さる感触が気持ち悪いのかもしれない。でも映画としては素直な娯楽作だ。
主演が一緒ということもあるけど、グリーンディスティニー以降、世界観は変わったなあと思います。日本の時代劇だと、どうしてもこんなウソっぽい(いい意味で壮大という意味)感じにならないもんね。そういう意味では羨ましい世界観なのかもしれない。


ファインディング・ニモ/アンドリュー・スタントン監督
 僕は父親なのでこのような父親の物語は身につまされるものがある。と、同時になんか違うというような感覚も持った。僕はここまで干渉はしない。しかしひょっとしたらもっと干渉したいのかもしれない。単に臆病なだけなんだろうけど。
映画としては乳離れの物語なので、母性の映画なのではなかろうかとの疑問もある。まあ、子供についてきた親のための、教育娯楽映画というのが本当のところだろう。


エターナル・サンシャイン/ミシェル・ゴンドリー監督
 なるほど、アイディンティティというやつと関係があるらしいな。西洋の人たちはこの問題には関心が高いらしいことは聞いたことがある。僕は日本人だし、子供のころからドラえもん的なSF世界との馴染みがあるので、このような問題には最初から違和感が無い。しかしながらそういう世界観の違いのようなものと、現在過去の記憶のタイムスリップを楽しむ映画のような気もする。漫画的だけど、そのようなわけで馴染んだものの勝ちである。


プリンセスと魔法のキス/ジョン・マスカー、ロン・クレメンツ監督
 これは子供向けだということなんだが、なんだか大人向けのような気がしないではなかった。王子様が必ずしも憧れの王子様で無いところが素晴らしい。その上に大人社会の汚らしさ。しかしながらそのようなドロドロとかガッカリ感も見事に笑い飛ばして、たいへんに楽しい娯楽作であるとお勧めするのである。でもこれって、本当に子供も楽しめるんだろうか。


アポカリプト/メル・ギブソン監督
 宇多丸が褒めていたので見直した映画。一度目は、途中で寝てしまったらしい。寝てしまったのは疲れていたせいで、それに残酷描写が容赦ないので子供に遠慮したのかもしれない。見直してみると、確かに単純に面白い。面白すぎる、ともいえる。手に汗握るとはこのことで、ドキドキが止まらないまま最後まで一気という素晴らしいエンターティメントだ。サド・マゾ・ギブソン万歳である。
 ああ、それと、これこそ諦めてはいけないということと、ほんとうの勇気とは何か、男の自信とは何か、なんかもついでに考えてみよう。


エグザイル/絆/ジョニー・トー監督
 まあ、どれだけこの世界に入れ込めるかで、ぜんぜん違う印象になる映画ではあるだろう。付き合えない人にはどうにもならない愚作だろう。ちょっと前の若いころの僕ならそのように感じただろうことは知っているが、大人になってその辺の事情を割引いて観てみると、なんだかやっぱりカッコいいじゃん、という感じかもしれない。僕は男だけの友情というのは勘弁してくれというタイプの人間だと思うが、娯楽として観る分には、まあいいかである。都合のいいように世界が回っているのだけど、美しさと緊張感が、馬鹿な男の本能をくすぐってしまうのだろう。


300/ザック・スナイダー監督
 珍しくうちの息子たちも飽きずに観ていた。その映像が美しいのと、ゲーム的な展開と、そして肉体美の男たちの迫力ある葛藤が、単純に面白いからだろう。僕がホモだったら、もっと興奮しただろう肉体美とマッチョの世界である。一緒に死ぬのはまっぴらだが、一緒に「オウ、オウ、オウ」と雄叫びをあげられたら気持ちいいかもしれないな、と思ったのだった。


スラムドックミリオネラ/ダニー・ボイル監督
 日本だとどうしても「みのもんた」を連想させられるが、きわめてインド的な、それでいてアメリカ・アクションの映画である。結果はどうなのかというと、素直に面白い。壮絶な話なんだが、別に軽く描かれているわけではないのだが、きわめて後味が悪くないところも偉いと思う。映画はすでにインド人のためにある娯楽という話もある。それでいいとか悪いとかではなく、王道はすでにこの世界観なのかもしれない。
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暗黙の公認だったのか

2011-01-12 | culture
 大晦日に紅白を観ていたら白赤に限らずAKB48がたくさん出ているんだなあ、とは思っていた。人数が多いんだから当たり前だということもあるが、彼女らはいったいどっちの所属なんだ、と単純に思うとともに、紅白の勝敗なんてもはやどうでもいいということでもあるんだろうとやっと理解した次第だ(遅っ)。
 このような風俗のことは知らないんだから語らないということはあって、それは単純に僕がオジサンである証明なのだが、それに僕自身を対象にした風俗でも無いのかもしれないし、という遠慮はある。だからちょっとメモ的なもの。俯瞰したものはたぶん他にたくさんあるだろうから、断片でもあるけど。まあ、このあたりは話を始める前のいいわけだからどうでもいいか。
 僕がAKB(数字は以下略)を見ると、単純に気恥ずかしい。その壁を超えるとあんがい楽しめるのかもしれないとは思うが、積極的に越える気にはなれない。まず、AKBを詳しく知っている状態を他人に知られたくないということもあるかもしれない。何故なら詳しく知っている人を僕自身が偏見を持ってなんだか嫌だから。いや、好きなのはいいけど、別に(詳しくまでは)聞きたくない。それも楽しそうなのがさらに嫌かも。
 これは紛れもなく、彼女たちを見ている視線にエロがあるからだと思う。つまり秘め事のようなもので、猥談を公の場でできないのと同じことだ。これはそのように見ている人が悪いんだということなんだろうけど、そうじゃないっていう空気がさらに僕を混乱させるのかもしれない。紅白は夜の番組だけど、何か健全な感じの偽善が成り立っている場所だと思う。そういうところに公然とエロが出てくるというところになんとなく、という気分が乗っかるのかもしれない。
 最近は行かなくなった(と一応断るところは怪しいが)のだが、夜の街に出るとあのような子たちがたくさんいるだろうことは感じ取れる。風俗店の制服というのはエロの象徴なのだが、セーラー服とか看護婦の白衣(白とは限らないが)だとか、スチュワーデス(キャビン何とかというのは、無粋だ)とかOLのような格好をしているところは、専門的にそのエロ度は高いという感じはする。特にセーラー服というのは若いという象徴で、とりたてて他にとりえが無い場合のエロである場合が多い。遠くだと期待が持てるが、隣に座るとガッカリするような(そんなことはどうでもいいか)。だから当然(なのか)セーラー服の風俗店はたぶんダントツに多くて、一番ありふれている風景だろう。女子高生を見るだけで興奮するという人の多くは、そのような若い女の子が好きだということもあるだろうけど、現実的な風俗店の存在の逆転現象で、風俗嬢が昼間から集団でうろうろしていることにあるという話も聞いたことがある。それは仕方のないことなのかもしれないが、そうであるなら学校という環境にあこがれる人の中にそのような趣味の人が多いだろうことは、とりあえず忘れた方がいいかもしれない(娘のいる人は特に)。
 しかしながらAKBの本当のターゲットは、風俗店が派生的に狙っているオジサン達(若者でもいいけど)では無くて、同じように若い世代の学生・少年だろうとは思う。実際に彼女らの歌を聴いたり、グッズなどの商品を買うのは、彼らが中心なのだろう。僕にはもはや区別がつかないから乱暴に言うと、おニャン子クラブとかモーニング娘というように、時代とともに派生してくる若者搾取文化の形なのだろう(悪いと言ってるわけじゃないので、あしからず)。
 まあ、その辺は文化なので面白いということはできるが、しかし大人の僕がさらに違和感があるのは、これはすでに大人が認めてしまっている公然エロだということなのだろう。それもたぶん親たちが。
 それはこのAKBを作り上げた人たちの、おそらく思惑でもあったのかもしれない。彼女らはそのような商品としてのプロだから、訓練を受けた洗練さがある程度あることは間違いなかろう。しかし、それは学芸会というレベルに見える程度には、というコトワリがあるのではないか。実際には街中の女の子たちよりは可愛いのだろうけど、普通っぽい可愛さだとか。そのような垣根を曖昧にすることで、彼女たちを見る側も見られる側も同時に取り込んでいく仕組みを作り出しているのではあるまいか。彼女たちになりたがる女の子にも理解され、彼女たちを見たがる男の子にも理解のある親を作りたかったのではないか。
 僕は韓国の女性グループに熱狂してないように見えるオトコ達がなんとなく不思議だったのだが、よく考えるとそういう住み分けなんだからということなんだろう。それに最近聞いた話で、どう考えても洗練されている女性である韓国の方は、あくまで日本の若い女性向けなんだそうだ。へえ、と思ってやっと気がついた。あのカッコよさは僕のように分からない人が勘違いするだけで、女視線を計算しているわけだ。確かに韓国の方は、足はたくさん見せていてたいへんにセクシーだけど、エロというのとは違うのかもしれない。むしろ露出度は低いAKBは、はっきりエロだと感じるのと比べて。なるほど、言われてみるとその通りだ。
 世の中というのは、なかなかむつかしいことを展開しているのだなあ、と感心しました。一年に一度だけれど、紅白というは勉強になりますね。
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犬にかまれる

2011-01-11 | 時事
ラドクリフ、犬にかまれる

 それより自転車にぶつかったり、毒蜘蛛にかまれたり、受難の人だったというのが面白い。
 Qちゃんの記録をあっさり大幅に更新したときは、なんだか悔しいというよりホントかいな、といぶかったものだが(捏造の国英国人だし)疑って悪かったです。まだ現役ということで、頑張ってください。
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おとうと

2011-01-10 | 映画
おとうと/山田洋二監督

 最初に断わっておくと、映画としてはちょっと残念な出来である。監督の思想なのかもしれないが、鼻につくというだけでなく、映画としても失敗だろう。何か思惑がどんどん外れていって取り返しがつかなくなるような、そんな残念さが残った。頑張っても結果が悪くなることがある。そんな感じだ。
 この映画のようなものを観てしまうと、改めて「男はつらいよ」というシリーズは奇跡的なもののようにも思える。柴又のあの店と、おいちゃんをはじめとする家族や、そして何より渥美清だ。そのようなものをシリアスに掘り下げようということだったのかもしれないのだが、しかしコメディの方が深くそのようなリアルを伝えていた。なんだか皮肉な結果ではないか。渥美清の演技というのは、そのような完璧な作りものであるリアルなのだろう。比べてしまう方が残酷なのかもしれない。
 鶴瓶は確かに熱演だし、下手ではない。しかし彼は本当に困った人のようには見えない。これは本人は基本的に善人だが、結果的に周りを不幸にする本当に悪人でなければならない。だからこそ、家族はこの不幸から逃れられないのだ。この映画では姉をはじめとする関係者の単なる虚栄心が傷つけられるだけのことで、恥ずかしいだけで、実は何にもたいしたことをしていない(借金だけは困るけど)。もっと信用を傷つけられ、それでももがきながら葛藤する必要があったのではないか。アルコール中毒患者という病人を、寄ってたかって非難して反省しない家族の残酷な姿に、共感できる方が底が浅いのである。
 結局家族というものは、他人より残酷に冷たい。おそらくそのようなことを言いたかったわけでは無かろうに、そのように感じざるを得なかった。だから結局は社会的にホスピスのような場所が必要になっているということなのか。本当にそのようなメッセージであったのなら、監督の思惑としては成功しているのだが…。

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頑張れタイガーマスク

2011-01-09 | 時事
静岡のタイガーマスクは「お年玉」

 ここのところ話題になっているタイガーマスク(実際には主人公の名前である「伊達直人」名義らしい)。東京近郊の話題が多かったので同一人物である可能性が高いとも思われていたのだが、今回を始め沖縄でもランドセルが贈られたりしているという。こうなると同時多発の好意の連鎖とみていいだろう。このような便乗であれば歓迎してもいいのではなかろうか。
 名乗り出て欲しいというコメントもわからないではないが、タイガーマスクは誰がそうなのか分らないという意思表示であることは間違いない。特定の個人の行為なのではなく、社会現象である所以である。名乗り出てしまうと覆面が剥がれたということにまってしまい、タイガーマスクとしては屈辱なのである。ぜひこのまま連鎖が続いて欲しいものだと思う。
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今年(昨年)を振り返る⑬ 考えてみると恐怖編

2011-01-08 | 映画

 いわゆるホラーは苦手だと言ったが、心に染みいる怖い話は好きである。というか、感心させられる。人間というのは本質的に怖いのだと思う。僕が墓場が比較的平気なのも、墓の下には骨があると知っているから、つまり死んだ人間だから怖くないのである。生きて動いて、なおかつ何かを考えている人間ほど恐ろしいものは無い。僕は男だから女が怖いし、僕が馬鹿だからだろうけど、賢い人より馬鹿が怖い。できれば映画の中だけで済んで欲しい体験だと思うのである。

疑惑/野村芳太郎監督
 ちょっと古い映画だけど、なかなかの名画だと思った。悪女の桃井かおりは本当に憎らしくて凄い。岩下志麻もいつもの仏頂面なんだけど、深い悲しみを感じさせてくれる。お話も伏線も実に見事。善人って実は一番タチが悪いって、僕はそう思うし、きっとこの映画を見たら分かってもらえるんじゃないかと、少しだけ思う。堪能いたしました。


火事だよ!カワイ子ちゃん/ミロス・フォアマン監督
 共産主義って酷いもんだなあと確認する映画。とは言っても、別段本当は恐ろしいことが起こるわけでないのだが、強烈な皮肉で見事に共産国の現実を分からせてしまうというのはあっぱれである。コメディだから笑えるんだけど、ある種官僚社会の日本にも通じるところがあって、ちょっと恐ろしいかもしれない。

レヴィリューショナリー・ロード/サム・メンデス監督
 こんな夫婦は本当に難しいと考えさせられる。観る者は当然「タイタニック」のロマンチックな二人を知っているはずで、そういう意味でも奈落の底に叩きつけられる思いだ。誰が悪いと決めつけるのは簡単だが、誰が悪いということだけで片付かない問題である。それは、おそらく他の多くの夫婦も同じことであるはずだ。
 こんな思いをするために一緒に暮らしていかなければならないとしたら、結婚生活は最も残酷な地獄である。


ブッシュ(W.)/オリバー・ストーン監督
 これって本当に実話に基づいているんだろうか。そうだとしたら、本当にアメリカって遠い国だなあと思ったりした。アメリカの大統領は、事実上地球上でもっとも権力のある人だが、それが単なる父から認められたいだけの坊っちゃんだったなんて…。しかしそういう人でも、サクセスして上り詰めることができるダイナミズムは認めるのではあるけれど。最近のことなので、こんな国に振り回されなくてはならない世界の国々が、改めて気の毒でならない(含む我が国)。
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努力も水の泡の話

2011-01-07 | 時事
通勤手当もらい自転車通い…60万浮かした教諭

 いっちゃ悪いけど、この記事でびっくりする公務員はそれなりの数になるのではなかろうか。公務員に限らない気もしないではないが…。
 まじめに調べたらものすごい数の該当者が存在するのは間違いないと思う。通勤手当という限定をしなければ、不正受給なんてむしろ普通だろう。何をいまさら、ということのほうが多いかもしれない。
 しかし、その今更というのをあえて発表した裏には何があるのか、ということなのかもしれない。それ以上の何かがあるのかもしれないし、正直にそのような見せしめで本当にやる気を出して絞り込んでいく方針かもしれないし。
 自転車で通っていたというのなら、むしろ努力家だったということも言えるわけで、努力の報われない社会の表れということも言えるかもしれない。
 通勤手当なんていうものは,本人の能力とは一切関係のない支給である。さらに非課税。近くに住んでいるだけで貰えないのは不公平だという考えの人がいる可能性はある。そういうことも含めて役場的な公平感には、ひょっとすると引っ掛かりやすい制度なのかもしれないな、なんて思ったりして。どの道チクリだろうしね。どうも考え出すとつまらない話でした。
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シャッター・アイランド

2011-01-06 | 映画
シャッター・アイランド/マーティン・スコセッシ監督

 島ごと閉鎖空間にするというのは誰でも考えることなのだろうか。もっとも島流しという言葉もあるから、国際性のある感覚かもしれない。島に閉じ込めるというだけで、協力者がいない限りは少なくとも島外には泳いで逃げなければならないことを思うと、戦意喪失をさせるという意味でも、合理的なのかもしれない。
 精神病を持ちながら重罪を犯してしまった人の専門の刑務所(兼病院)で、一人の囚人(患者)が居なくなる。その捜査に連邦保安官が駆り出されるという展開。逃げられないはずの刑務所から彼女はどこに消えてしまったのだろう。
 過去のことがフラッシュバックでたびたびよみがえり、この保安官にも何か問題がありそうなことが示唆される。現実なのか夢なのか、その境界も曖昧になっていく。何か大きな陰謀があるらしいのだが、何故そのような秘密が張り巡らされているのか。困惑を深めながらも事件は思わぬ展開を見せてゆく。
 いわゆるどんでん返しモノなので詳しくは書けないが、しかし、オチはおそらく途中で察しがつく人も多いだろうと思う。普通ならそれでオチてお終いなのだが、察しの通りネタばらしが済んでもなかなか映画は終わらない。むしろそこから第二部、というか第三部というか、別の展開を見せてゆく。現実の世界がなんなのかは分かった。しかし、だからと言って現実のことだけが真実として大切なのだろうか。ここまでに至る経緯において、人間の愛情というものの深いところでの不条理のようなもの、深い悲しみの本質的なものまで描こうとしているのではないか。

 僕自身は父親の仕事の関係で、子供のころから精神を病んでいる人とのつきあいがある。彼(彼女)らのいう陰謀というものについては、僕自身も何度か悩まされたことである。思わず「なぜ、そんな陰謀が謀られなければならないのか」というようなこと自体を疑問視したくなる場合もあるのだが、そしてその陰謀のほとんどは、かなり合理性に欠ける場合が多いのだが、しかし現に彼らはその陰謀のために苦しめられているようなのだ。すべての謎を解いてやりたいのは山々だが、その陰謀を解く努力をしても、さらなる陰謀によってむしろ混迷は深まることにもなりかねない。本当に理解できるというのであれば、すでにこちらも何か問題があるのであろう。
 映画の展開は必ずしも僕が聞いてきた陰謀とは形が違うわけであるが、しかし、なんとなく懐かしいような、そしてよくわかるような気がしないではなかった。上手く言えないのだが、これは真実の陰謀なのではあるまいか。もちろんお話として観る者を楽しませる仕掛けは随所に施してあるのだが、僕はむしろそのような仕掛けであっても、患者さんを改めて理解できる材料としてよくできていると感じながら観ることができた。なるほど、彼の言っていたことは、このような感じのモノだったのかもしれない。主観的な体験を映像的に理解できようはずもないが、この映画はきわめてよくできているように思えた。おかしいながらに、リアリティが感じられるのである。
 このようなことは、本来的に映画としての出来栄えとは関係の無いことかもしれない。しかし、この監督の力量やディカプリオの演技というものは、人間の深層の感情を見事に描き出していると思った。これは、本当に狂気の人だけが持っている感情なのではないのだと思う。そして、本当に特殊な人たちが体験しているだけのことではないのだ。
 精神病が人間以外の動物にもかかる病気なのかは僕は知らない。しかしながら、目に見えないながら間違いなく病気として存在していることは確かなことのように思える。そのような病気は、誰もがかかるわけではないようだが、しかしながらそのような状態は、実際には誰もが体験するような狂気なのではあるまいか。どちらかの境界を上手く(もしくは、なんとか)綱渡りできているだけの話であって、僕らの精神はいつだって、何かと隣り合わせでなんとかバランスをとっているだけのことなのではないだろうか。
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今年(去年)を振り返る⑫

2011-01-05 | 読書
□経済・社会編
 政治に経済政策(バラマキ以外の景気対策)を求めるというのは、今ではごく当たり前のことのように言われる。しかし経済というのは生き物で、人知でコントロールできるようなものでは無いように思える。さらに経済効率の悪い行政が民間よりも効率よく経済問題を扱え得ないというのは、広く常識的なことであろう。政治判断のもとに動くのは何かということを考えると、経済を浮上させるような政策を政府自らが行えるというのは幻想なのではあるまいか。
 
日本経済「余命3年」/竹中平蔵・池田信夫・鈴木亘・土居丈朗共著(PHP研究所)
 ごくごく常識的でごくごく当たり前のことが素直に書いてある。知っている人にはわかりきっている話だが、テレビのニュースくらいしか見ていない人には衝撃的かもしれない。しかしこのことを知識として理解できている政治家がこのことを踏まえて政治判断できるかは別問題である。政治に経済政策を実行させるには、本来そのことから政治家がすべきことではあるにせよ、まずは世論を形成させなければ無理だ。つまり結論を言うと、僕らは余命をただ待つのみだということになろう。

鳩山由紀夫の政治を科学する/高橋洋一・竹内薫著(インフォレスト)
 鳩山さんの時代は終わったが、しかし昨年の今頃はこのような話を信じている人はおそらくそんなにいなかった。その後の菅さんが路線を変更することもなさそうだ。できればぜんぶ外れてほしい。そんなような理系神話の勘違いが、含まれているような気がする。

競争の作法/斎藤誠著(ちくま新書)
 これは人間の欲望より人間の知性を信じているということのようだ。僕も信じたい気持が無いではないが、心のどこかで信じてないということは認めざるを得ない。そのような人間のはしたない欲望があるから、競争に燃えるということもいえるだろう。そしてそのような単純性を上手くコントロールする知性は、結果的に冷静に落ち着いてからでなければ考えられないのではないか。

競争と公平感/大竹文雄著(中公新書)
 これは素直に考えてみるには面白いテーマが満載である。経済で事象やトレンドも考えられる。そのような経済万能のような感もある。しかしながらどのデータを持って探るのかということが大切で、その多くは過去の検証の切り口でしかないのではないか。たとえば相撲のような格闘技は、他のウェイト制をしいている競技から考えるとかなりフェアとは言えない。二百キロ近い体重の人と90キロの力士が同じ土俵で勝負するのにハンデをつけない日本の相撲は、後進的なのだろうか。しかし、それでも伝統的に相撲のフェアとは、そのことを同じとみて勝負するところに本質がある。つまり、経済ではこの不合理は解けない。
 そのようなことも含めて、楽しい思考実験になると思う。

日本はなぜ貧しい人が多いのか/原田泰著(新潮選書)
 経済的事実とは世論とは違うところにある。そのことを知るだけでもかなり有用だろう。しかし世論というのは、事実を見たくない人のためにあるのかもしれない。統計的事実を目の前にしても実感が伴わない人もいるだろう。意外だが、しかしそのようなものだ。だからこそ事実を知ることは限りなく有利である。そのことで多くの人はおそらく損をするのだろうけれど、それにさえ気づかなければ、誰が得をしたのかもわかるまい。そのような悲しい日本人を笑えないのが悲しいだけである。

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食事は一日三度とは限らない

2011-01-04 | 
 正月は、晦日・大晦日と降り続いた雪で行き場を失い。チェーンをつけたついでに少しばかり買い物をしたり、挨拶のために職場に立ち寄ったりした以外はほとんど家の中にこもっていた。休みなんだから何の気後れする必要もなく、しかしだからといってダラダラしていることがちっとも苦痛にならない程度にこもれたということでは、近年覚えのない心地の良い骨休みになったことである。
 しかしながら問題があったといささか反省していることに、こもりながら、ほとんど延々と飯を食ってしまったことかもしれない。人が集まる場所に好んで立ち寄ったりはしないが、やはりこもりながらも他人には会う。正月は少しばかり日常とは違う料理が並ぶ。そして時間がくると決まったように飯を食うことになる。
 年越し前の食事を取った後に夜更かしして食う蕎麦はもちろんだが、年をとったので元日だからといってとくに寝坊をするわけではないから朝から雑煮を食う。もち米とはいえご飯をつぶして丸めたものが独自の風味になって口に運ばれると、すっかりめでたいような気分になる御馳走である。年始の挨拶に職場に寄るのだが、恒例の朝飯は少し遅くからとることになる。挨拶後屠蘇をふるまったりするのだが、それが済むと僕らにも食うものがある。黒豆とか数の子とか酢の物なんかもあるのだが、是非にとやはり雑煮をつがれる。家で食ってきたといっても許してもらえず、しかしそれなりにおいしく頂いた。ぜんぜん腹が減って無いのに腹に収まり、そしてめでたい。
 当たり前のようにすぐに昼が来て、そうして刺身やら煮ごみなどがテーブルにならぶ、昆布の巻物のようなものを冷やかして食い、酒は流石に遠慮するが、腹が苦しい。
 元日は郵便配達が頑張っているので午前と午後の二度にわたって年賀状が届く。出し忘れていた人などをチェックして、再度デフォルメした絵を書き込んだ賀状を作成し、宛名などを書いているとすぐに夕方になる。正月だから早く飲んでいいとお許しが出て、晴れてすぐに乾杯などをしたりする。当然のように刺身などをつつき、ナマコを食ったり肉を食ったりする。寿司だってつまんで食う。これも頂き物でいつもよりかなり高級な焼酎を飲みながら、腹が減って無いとは思いながらも結構口に運んでしまう。テーブルの前に座っている限り、箸が休まることはあまり無い。
 翌日は当然のように二日酔いでありながら、宴会料理の残りものもあるし、さらに温かい具だくさんのみそ汁などもこしらえてもらい、胃をいたわるようにおいしく食べて駅伝放送に備える。ほとんどの区間は一人一時間以上も走っているわけで、やはりどえらいことだと感心しているうちに第四走者が走り終わる頃には昼食になる。今年は何故かスキヤキで、スキヤキといえば夜に食えるものというような先入観があってちょっと不思議だが、酒を飲まずにご飯でスキヤキの肉をつまんでいると、これはものすごくご飯がおいしく、うどん玉を煮込んでさらに飯を掻き込んでしまったりする。
 山の大逆転を見終えると恒例のサッカーへ出掛、今年は高中生の助っ人が激しく走り回るので目を回すように少し意地になったりしてボールを追いかけ、帰って風呂につかるとすぐに打ち上げの宴会に出かけなければならない。
 居酒屋では多少議論の余地はあるが僕は目の間にたくさん料理が並んでいなければ大変さびしくなって不機嫌になるので、反対を押し切ってこまめに料理を注文し、レバ刺しから始まって焼き鳥はもちろん山芋ステーキやらピザやらスパゲティまで一通り食べつくし、さらに焼き魚なども無いといけないので頼んだ手前すべてに箸をつける。もういい、と皆に念を押され、焼酎の瓶も何本か空いたので二次会へ繰り出すことになった。
 途中は端折って眠たくなったのを押して帰り際にはラーメンを食べる。ついでにタクシーを呼ぼうと思っていたのにどうにもやってこないという情報だけを貰って不安なまま歩きながら流しのタクシーを探し、その夜は何とか帰りついたようだ。
 そういえばニンニクを食ったらしくて家人にはたいへんに評判が悪かったがちゃんとご飯で朝食を摂り、やはり駅伝にかじりついて体調を整える。昼前に正月だから帰ってきている弟と食事ということで、正月らしいステーキ肉なども食べ、やはり寿司やら揚げ物やら刺身なども食う。この後つれあいの実家にご挨拶に行く予定なので昼は二度あるといわれていたが、食べだすと食べられるものだ。それに目の前にたくさんあると手を出さないわけにはいかない。
 見送りをして、こちらも移動して線香をあげて麦酒をいただくと、どうしても10区の走りが気になってテレビにかじりつき直し、残念だったがいいレース自体には感激し、さらに食卓に戻って大好きな白身フライを中心に豚の角煮やらカニの爪やらを頬張り、すっかり満腹で昼寝する。この場合牛になるのかどうかなどと少しは考えたが、睡魔には勝てるものではなくイビキをかいたということだけは聞いた。
 うす暗くなり家に戻るとすぐに夕食で、酒も醒めていないままさらに飲みだす。子供たちはカレーなどを食べているが、とにかく食べるものはあるのである。いいかげんにこれは悪酔いするなと気づいた時にはだいぶ食卓は片付き、やっとあきらめてお茶を飲んで寝た。
 翌朝体重計に乗ると流石に愕然とするが、仕事があるので明太子でご飯を食べヨーグルトを食べた。いろいろ報告事項を聞いていろんな人と挨拶を交わしていると昼になり、一見ちゃんぽんのように見える野菜ラーメンと餃子を食べた。これはいつになったら落ち着くものだろうかと思いながら、明日あさっては新年の食事会などの行事外出があるんだそうだ。うーん。
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ヒヤヒヤのヒーロー

2011-01-04 | 時事
国学院大、道間違えも初シード

 毎年のことではあるけど駅伝三昧。ほぼ12時間見通した。今年も見どころは多く目が離せなかった。
 5区以外では終始先頭を走っていた早稲田の強さに舌を巻いたという映像風景だったのだが、記録的なモノを子細にみると、むしろ東洋大の4つの区間賞をもってでもねじ伏せることができなかったということがいえて、実に駅伝臭い粘りの勝負だったことが分かる。何年か前の亜細亜大のような感じかもしれない。もちろん一区の大迫の迫力もあるから確かに圧倒していたのは事実だが、総合力勝利という一番むつかしい駅伝を展開した力強さをたたえるべきだろう。
 200キロを超える距離をつなぐレースにも関わらず、最終10区まで順位ごとにもつれる展開も観る方には楽しいものだった。中央大学のアンカー(宮本)の果敢に何度ももがきながらスパートする姿には、思い出しただけでも涙があふれてくる。
 国学院の寺田は歴史に残る大チョンボに沈むところだったが、かろうじて逆転する力があり皆がホッとした。むしろ城西大は二重に沈んでしまったことだろう。
 多くの選手にとって、すでに来年へのレースは始まっている。ある意味で、本番より重要で長い道のりが始まっていることが、より観る者をも熱くさせるのだと思う。

 ということでよい正月でありました。
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