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子隣村検地水帳 その2



(徳山の工場プラント群)

今朝から一泊二日で福岡へ出張である。今日ののぞみは山口県の徳山駅に止まった。駅からは山陽新幹線では珍しく、徳山の工場地帯と瀬戸内海が見える。いつもは素通りであっという間に過ぎてしまうが、今日はゆっくりと走った。何枚か写真を撮ってみた。

今、ホテルのLANケーブルを使って書き込んでいる。昨日の「子隣村検地水帳」の続きを書き下し文で示す。昨日の書き下し文は改行がうまく出来ておらず、わかり易く書き換えた。

一 米二斗八合     小笠山柴役米
  内  五升五合   井伊伯耆守様御領分桶田村へ出し
     一斗五升三合 井上太左衛門様御領分金谷村へ出し
  これは十年以前より柴役米出し、馬草、薪取り来り申し候
一 薪居林にて取り来り申し候
一 西より東へ流れ申す川にて井水取り申し候
一 六尺給米         前々より出し申さず候
一 四貫七十五文       夫銭出し申し候
  これは本多越前守様、江戸御上下の夫役銭に出し申し候

※ 居林 - 村の林
※ 井水 - 井戸の水。ここでは川に堰を設けて水を取った。
※ 六尺給米 - 江戸城台所人夫の代
※ 夫銭 - 夫役(ぶやく)の代わりに納めさせた金銭。 
一 村領内  東西二十町 南北一町半
     隣村  岩井寺村へ 七里半
         高瀬村へ  二十五町
         下内田村へ 一里
         見付町へ  五里
         中泉へ   五里半
         池田へ   六里半
         福田へ   六里
         掛塚へ   七里
一 二分三百三十一文   江戸御蔵前御入用金
    但し百石に付、一分掛り

※ 見付町は東海道見付宿、中泉は代官所、池田は天竜川の渡し場、福田と掛塚は湊がそれぞれあった。
当村川除け
一 横井九ヶ所  百姓役に仕り来り申し候
一 川堤切所、破損御座候節は、御断り申し上げ、御人足申し請け、修覆仕り来り申し候
一 留池二ヶ所、破損の節は御断り申し上げ、御人足申し請け、修覆仕り来り申し候
一 留池樋の儀は当村居林にて伐り、百姓役仕り候

※ 川除け - 堤防などの河川の氾濫防止施設。
※ 横井 - 川の堰
※ 御断り - 許可を取る

一 家十六軒    内  三軒     本百姓
             十三軒    高持たざる百姓
一 男女九十八人  内 五十三人、男 四十五人、女
          内 水呑男三十四人、同 女三十二人
            三十人大小百姓
            二人出家
一 一ヶ寺 松岩寺
   曹洞宗御支配所、上土方村本寺花厳院、末寺
一 白山権現    社領少も無御座候
一 金山      同断
一 天白      同断
一 天王      同断
一 牛馬      五疋 内 三疋馬 二疋牛
一 鉄砲一挺、鉛玉三匁五分  持主源八郎
   これは鹿(しし)おどしのため取り持ち仕り候
一 ちゃうせん人御下りし節は掛川領へ道場すけ(助)役仕り候
一 御林、御座無く候
一 酒屋、糀屋、御座無く候
一 郷御蔵一軒、長三間、梁二間、百姓作事仕り候
一 小橋三ヶ所 百姓役にかけ申し候

※ 高持たざる百姓 - 水呑み百姓
※ ちゃうせん人御下り - 朝鮮通信使の通行
※ 御林 - 幕府直轄の御林
※ 郷御蔵 - 郷蔵。江戸時代、郷村などで、年貢米を上納するまで貯蔵し、また凶作に備えて穀類を保存した共同倉庫。
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子隣村検地水帳 その1

(掛川市立中央図書館)

午後1時半より、第四回古文書入門講座で掛川市立中央図書館に出掛けた。課題は「子隣村反別指出シ帳」である。この文書は子隣の角皆(つのがい)家文書である。

「反別指出シ帳」とあるが、最初にこの文書が「検地水帳」であると示されている。「検地水帳」は検地帳のことで、当時、領主が替わるたびに庄屋などから提出された。その内容は村の耕地面積にとどまらず、村の概要が知れるように、様々な事柄に記述が及んでいる。

この検地水帳は横須賀藩主であった本多利長が1682年、「民を虐げ酒を嗜み色に耽る」という不行跡で、大名を首になり、出羽国村上郡へ一万石の仏飼料で遷された。その時天領となったが、その折りに提出されたものと思われる。

前回少しだけ解読した分と今解読分を書き下したものを示す。

元禄五年申の八月 遠州城東郡子隣村反別指出し帳
拾八年以前、延寳三年卯年、本多越前守様御検地水帳所持仕り候。黒土砂地
一 高二百二十六石六斗二升七合      子隣村本田
    先年本多越前守様御領分      
    十一年以前戌年より御蔵入に罷り成り候
            庄屋 次郎兵衛
            組頭 平次郎

※ 城東郡 - 古くは「城飼郡」の表記もある。牧之原の地名に残るように、かつて、馬を育てる牧があったことから、古い地名は付いたと思われる。
※ 御蔵入 - 「御蔵」は幕府の蔵のことで、天領になったことを示す。
      内
  ニ斗五升六合      御蔵屋敷永引
  十四石八斗三升七合   前々永引
    小以十五石九升三合

※ 永引 -「控除」の意。
※ 小以 -「小計」の意。
  残ニ百十一石五斗三升四合
   この反別 ニ十町一反二十二歩
    この訳
   田方十六町六反ニ畝三歩内
     上々一町七畝六歩        十四代
        分米十五石八合
     四町三反二十八歩       十二代
        分米五十一石七斗一升三合
     五町三反六畝二十九歩    十一代
        分米五十九石六升六合
     四町一反三畝十八歩     十代
        分米四十一石三斗六升
     下々一町七反三畝十二歩    七代
        分米十二石一斗三升八合   
    この分米合せて百七十九石ニ斗八升五合
   畑方二町六反九畝二十六歩内
     上九反五畝六歩          十一代
        分米十石四斗七升ニ合
     中六反九畝一歩          十代
        分米六石九斗三合
     下四反六畝十三歩        七代
        分米三石二斗五升
     下々五反九畝六歩        五代
        分米二石九斗六升
    この分米合せて二十三石五斗八升五合
   屋敷七反八畝二十三歩
    この分米八石六斗六升四合

※ 分米 - 近世、検地によって定められた耕地の石高
※ 上々(田)・上・中・下・下々 - 石盛の際、田畑を5段階に分けた。
※ 十四代 - 石盛の単位当りの石評価高。1石4斗/反当り。
    二十六石     麦蒔田水掛り
    六十石        留池水掛り
    四十三石余     ぬま田満水いかり所
    五十石       天水所

※ 留池 - 「溜池」のこと。

当時は耕作地に必要な水がどのように取られているかが重要な点であった。「検地水帳」とわざわざ水の字を入れた理由が理解できる。
(続く)
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「コメント」への返答

(会社駐車場のフヨウの花)

「かさぶた日録」に、時々、色々な方からコメントを頂く。日々の書き込みに追われていて、なかなかそのリアクションとしてのコメントを書き込むことが出来ないで来た。タイミングを逸すると書きにくいものである。今日はリアクション出来なかったコメントをまとめて書いておきたい。

8月11日、「かなやのひと」さんから頂いたコメントでは、昔の大井川について直接会って情報交換したいと申し入れがあった。自分は特別に大井川について研究しているわけでもないので、情報交換できるものも持ち合わせていないが、大井川についてでは、少し古い本ですが、「大井川とその周辺」(浅井治平著)という本があります。自分はこの本に尽きると考えております。「みんくる」でも手に取ることが出来ます。

8月20日、「あーきさん」から、ムサシ噛まれた指の見舞いのコメント。「あーきさん」は自分の娘だが、コメント以外にも、御会いした人から思いがけなく指の見舞いの言葉を頂いた。今はもう傷も癒えて、残るは中指の爪に残った内出血の痕だけで、これは爪が生え変わるのを待つしかない。その後のムサシは以前より気難しさを増したように思う。

8月31日の自分の書き込みに対して、9月2日、「金谷コミュニティ委員会広報部」の奥村部長さんからコメントを頂いた。自分勝手のやや失礼な書き込みに対して、丁寧に書き込んでいただきたいへん恐縮して読ませていただいた。その後、広報誌「ほほえみ」の最新号も読ませていただき、「金谷コミュニティ委員会」の趣旨もよくわかりました。自分のブログも毎日書いておりますので、写真や内容で利用したいものがありましたら、使っていただいてけっこうです。側面からですが、応援させていただきたいと思います。

9月2日、コメントを頂いた「楊貴子」さんは自分の子供の頃からの親友で、このブログにも時々書き込みを頂く。すべてにリアクション出来ないが、思い出話をブログの材料にするとき、彼ならどんなコメントをくれるかと、期待をしながら書き込む場合もある。鳩山さんを「日本で初めての理系の首相」という切り口で取り上げた「楊貴子」さんのコメント、「目からウロコ」でした。ただ、今回の選挙を「Criticalな相転移」と評する部分は、自分の理解できる範囲を超えている。文科系の自分にも解るように説明がほしい。東北大のU教授も定年だというが、いつか40年前の旧交を温めたいですね。

今日はテーマに窮して、気になっていたコメントについて、返答をまとめてみた。いつでも使える手ではない。
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温暖化講座、遺伝子組換植物の現状

(会社駐車場の萩の花)

(温暖化講座の続き)
遺伝子組換えによる品種改良が行われる以前、品種の改良はもっぱら人工交配によって行われてきた。といっても、その歴史は浅くメンデルの法則が発表されたのが1865年で、その後、1898年以降というから、高々1世紀にすぎない。

品種改良以前に品種改良が無かったかといえば、人間が耕作過程で偶然に生じた雑種が優れた特徴を持つことから、特に選んで育てるという経過の中で、品種の改良が行われた。コメ、ムギ、トウモロコシ、トマトなど原種と比べると別種に見えるほど改良されてきた。

遺伝子組換えによる品種改良は、1994年、遺伝子組換えによって熟しにくいトマトが開発され市場に提供されたのが始まりとされる。

交配による品種改良と遺伝子組換えによる品種改良は両者ともに目的は同じである。ただ交配による品種改良は同種または交配可能な近縁種のみから遺伝子を集めるのに対して、遺伝子組換えによる品種改良はどんな遺伝子でも組換えに使えるという特徴がある。

遺伝子組換え農作物のもっとも普及しているものは除草剤抵抗性作物である。アミノ酸合成行程を壊す除草剤(グリホサート剤)に対して、グリホサート抵抗性を持つ作物が遺伝子組換えによって開発された。除草剤を撒いて雑草を押えながら、作物は無傷で育てることが出来れば、雑草除去の手間が全く無くなる。
(今日のNHKクローズアップ現代「スーパー雑草大発生」で除草剤に耐性をもった雑草が世界的に大発生していると報道していた。)

その他、遺伝子組換えによって、ストレス耐性作物、害虫抵抗性作物、ウィルス抵抗性作物などが研究されている。ストレス耐性作物とは、低温、高温、乾燥、塩害などに耐性を持つ作物をいう。

作物のサイズを大きくする技術は、細胞分裂を伴わないDNAの複製(エンドリデュプリケーション)を起こすことで可能になる。普通、細胞はまずDNAを複製しそれぞれにDNAを持った二つに分裂をする。しかし何らかの方法で細胞分裂を起こさないようにすれば、細胞内に複数のDNAが存在することになる。細胞内にDNAが増えるとその増加に比例して細胞のサイズが大きくなることが知られている。この技術で大きくしたトマトなどが作られている。

低開発国でビタミンAが不足している現状から、トウモロコシの遺伝子を組み入れたビタミンAを豊富に含む黄色いお米が開発されたり、紫色のカーネーションが出来たり、遺伝子組換え技術を使った色々な作物も開発されている。

日本は遺伝子組換え作物に対して当初国自らネガティブキャンペーンをやったかとがいまだにひびいて、遺伝子組換えについてはヨーロッパ諸国(除くスペイン)と同様、たいへんに消極的であった。最近になってようやく、遺伝子組換えの分野で国際的に遅れを取るということで、国も推進するようになってきた。
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温暖化講座、落葉の仕組みと葉緑体の由来

(「ハテナ」- 分裂すると葉緑体は片方へ)

(昨日の続き)
秋になると葉が黄色や赤に紅葉して落葉する。樹木が冬支度をするためだと理解はしていたが、そのメカニズムについては知らなかった。

秋になると日差しが弱まって、だんだん光合成も出来なくなってくる。光合成をしない葉緑体は樹木には不要になる。冬に耐え、春の芽吹きに備えるために、葉にある葉緑体をタンパク質に分解して、木の幹に移す作業が始まる。緑の葉緑体が減っていくと木の葉が元々持っている、赤(アントシアニン)や黄(カロテン)の色素が表面に見えるようになる。これが秋の紅葉になって見える。タンパク質が葉から幹への移動を終えると、葉の根元で縁が切られ、風とともに落葉する。春には蓄えた養分を使って新芽を出して、新しい葉緑体を持った葉で樹木が覆われる。

ところが、ケヤマハンノキは晩秋まで紅葉しないで緑のままで葉を落とす。他の落葉樹のように、早々と栄養分を葉から幹に移すことをせずに、ギリギリまで光合成をして養分を溜め込み、葉緑体のそのまま残った葉を、緑のままで捨てる道を選んだ。その方がケヤマハンノキには効率的だったのだろう。また、ヤシャブシのように、山から町に移植すると山より落葉が後れたり、落葉しなくなったりするケースもある。一方、針葉樹は光合成が出来る期間が短い寒冷地に生育するため、落葉して春に新しい葉を作る時間的な余裕がない。だから、葉を落とさないで葉緑体を持ったまま(緑のまま)冬を越すという。

このように、樹木は芽を出した場所から他へ土地へ移動することが出来ないから、その場所の気候に適応して様々な工夫をしているといえる。

ほとんどの植物の葉が持っている葉緑体はどこから来たのであろうか。オーストラリアのシャーク湾にストロマトライトという丸い岩状のものがごろごろしている地形がある。これは酸素がほとんど無かった原始の地球で、光合成によって酸素を作った藍藻類の死骸と泥が積み重なったものだといわれる。藍藻類は原始的な細菌で、過酷な環境でも生息でき、原始の地球には至るところにいた。

この藍藻が原生動物に取り込まれて葉緑体となって共生し、植物の元になったといわれる。近年「ハテナ」と名付けられた、藍藻を取り込んだ原生動物が日本で発見された。「ハテナ」は二つに分裂して増えるとき、一方がすべての藍藻を受け継ぎ、他方は透明のままで、分裂の後に新たに藍藻を取り込んで、共生を始めるという。原始の状態をそのまま残す生き物であるが、植物なのか動物なのかわからないので、「ハテナ」と名付けられた。
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温暖化講座、光合成のメカニズム

(静大農学部准教授、本橋令子氏)

午後、第5回目の環境講座で靜岡に出かけた。今日のテーマは「植物の力が私たちを助ける」という演題で、静岡大学農学部准教授、本橋令子氏の講義であった。これが大変にやっかいな講義で、プロジェクターを使っていたが、あとで復習すべきペーパー無しで行われた。仕方が無いからひたすらメモの鉛筆を走らせた。遠くを見る眼鏡を掛けていると、手元のメモにピントが合わないから、手探りでメモを取ることになる。あとで解読出来るかどうか、古文書よりも難しいかもしれない。

准教授の専門は植物分子遺伝学及び植物生理学である。研究テーマが環境問題にどう関わるのか最後まで理解出来なかったが、氏の過去及び現在の研究発表として聞いた。唯一、関係が有りそうなのが、光合成機能を遺伝子組み換えで高める植物の研究であろうか。

植物の葉の中にある葉緑体は光合成が主要な機能であるが、その他にも窒素代謝、硫黄代謝、アミノ酸合成、脂質合成、色素合成など、植物細胞における代謝の重要な機能を果している。光合成は光が強い程機能が高まるが、過剰な光は有害なものになる。葉に過剰な光を当てると葉は白いワックスを出して過剰な光を和らげたり、葉を閉じて光を避けたりする。あるいは光から葉緑体が逃げて葉が透明に見えるようになる。

葉緑体は外側を二重の膜で覆われている。内部には、チラコイドと呼ばれる多数の膜で出来た薄い袋状のものが積み重なった構造の塊りが幾つもある。このチラコイドの部分で光合成が行われる。

チラコイドで光合成が行われた後、酵素による炭酸固定がなされる。この反応は光が無くても起きるので「暗反応」と呼ばれる。この炭酸固定の代表的な酵素としてルビスコという酵素が知られる。地球上に最多の酵素と言われるように、植物の中に大量にある。例えばホウレンソウのタンパク質の30%はルビスコだという。ルビスコはCO2を一秒に2個という超スローでしか処理できない。そのため大量のルビスコが必要になる。ルビスコは仕事が遅い上に、5個に1個は間違えてO2をつかんでしまうという。原始の地球には酸素がほとんど無かったから、ガードが甘くても問題が無かった。
※ 炭酸固定 - 空気中から取り込んだ二酸化炭素を炭素化合物として留めておく機能

このルビコスという酵素よりもっとスピードが速く、CO2とO2の識別能力が高い酵素(スーパールビコス)を発見し、有用な作物に遺伝子組替え出来れば、成長の早い植物により温暖化の原因となる二酸化炭素をどんどん吸収して、食糧生産などにも役立つ。

現在、スサビノリという海苔の一種にスーパールビコスにあたる酵素が発見されている。海水中にはCO2、O2ともに少ないので識別能力の高い酵素が必要であったのであろう。それで、スサビノリは大変成長が早いという。この酵素を遺伝子組み換えするような実験が現在も行われている。

自分でメモを見て書きながら、実は余り理解出来ていない。光合成とか炭酸同化作用などと判りきった話と考えていたが、実は何も判っていなかったと気付かされた。
(明日へ続く)
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第8回古文書解読基礎講座「海難事故吟味書付」

(地震で崩れた駿府城の石垣)

昨日の古文書基礎講座、少し早い電車で出かけたので、会場まで歩いて行った。途中先の地震で崩れた駿府城外堀の石垣を写真に撮った。場所は県庁や市庁舎が並ぶ御幸町通りから丸見えのところで、大変に目立つ。復旧に7億円掛かると聞いたが、単に形を復旧するだけならそんなに掛かるはずは無い。きっと崩れた石材を元の位置に戻すように復旧するのであろう。

改めてお堀を巡ってみて、崩れた石垣を復旧しないで、水面近くに土留の石垣を低く積んで、土手のスロープをそのママにしているところがたくさんあった。石垣が崩れることは歴史の中では頻繁にあったのだろう。石垣が持つ、敵からの防御の意味を失って、崩れた石垣の復旧も最低限に留められた結果である。しかし今度崩れた場所は靜岡の顔のようなところで、金が掛かっても元通りに復旧しなければならない所である。

さて、第8回古文書解読の文書、二つ目は「海難事故吟味書付」と名付けてみた。浜方文書は初めてである。書き下し文を掲げる。

  御吟味に付、申し上げ候書付
遠州榛原郡相良町、三郎左衛門船沖船頭由蔵、三人乗り、この度空船にて当妻良(めら)村浦へ入津、滞船中、去月晦日、いなさ、大風雨、高波、時化(しけ)にて、元船浜へ打揚がり破損仕り、その段、村役人より御訴え申し上げ候に付、御越しに成られ、御見分、御吟味の上、私儀は右船宿喜平、他行留主(るす)中、親類に付、入り込み罷り在り候あいだ、この度宿代に相立ち、諸事世話仕り候儀に付、召し出され御吟味御座候。

この段、右三郎左衛門船。上方筋へ荷物買積みに罷り登り候儀、心掛け則ち風待ちの積にて、去月二十七日、当浦へ入津、滞船罷り在り候ところ、右船乗組のものども、申し上げ奉り候通り、晦日のいなさ時化烈しく、もっとも油断無く丈夫に繋ぎ堅め候えども、元来大時化ゆえ繋ぎ綱相保てず、悉く張り切れ、当村字小浦と申す荒磯浜より元船打ち揚がり破損仕る。乗組一同危いところ、村内のものども手段を以って漸く相助け三人とも上陸助命仕り候儀、御座候。右の通り申し上げ奉り候ところ、怪しき躰(てい)は見ざるや、馴れ合いにて仕らずや、の段、御吟味御座候。この段元船の儀にて、かつ道具捨ても一切これ無く怪しき筋はもちろん馴れ合い等、かって仕らず候。若し聊かにても不正筋これ有り御聞き及ばれ候はば、その筋何様の儀にも仰せ付けらるべく候。

右御吟味に付、相違申し上げず候。以上。
                     有馬図書知行
                      豆州賀茂郡妻良村
  未 七月二日               船宿喜平宿代  弥吉
          浦御役人
            行岡伴六郎殿

前書の趣私ども罷り出で承知仕り候。以上。
                     前田又吉知行
                       同州同郡同村  嘉兵衛

※ 三郎左衛門船 - 船の名前。
※ 沖船頭 - 江戸時代、廻船(かいせん)に乗り込み、船長として実務についた責任者。船に乗らない廻船所有者・船主を「居(い)船頭」と呼ぶ。
※ いなさ - 南東の風。特に、台風期の強風をさしていう。辰巳(たつみ)の風。「いなさ」に対して、主に四国や瀬戸内海の沿岸では、南風、または南寄りの風を「まじ」と呼ぶ。
※ 元船 - 沖に停泊して、はしけで陸上と交通した大きな荷船。
※ 船宿 - 近世、船主・荷主と問屋の仲介や船荷の世話をしたり、船乗りが宿泊したりした家。
※ 宿代 - 船宿主が留守のため、その代わりをする人。

相良から伊豆半島の石廊崎に近い妻良港まで船を進め、東風に一気に乗って上方まで船を進めようと、妻良港で風待ちをしていたときに、この海難事故が起きている。海難事故に対して、地元浜方と馴れ合いのうえ、虚偽の申告をして積荷などを掠め取る事例があったのだろう。その点の吟味を怠らないように浦役人より指示を受けている。打ち揚げられた小浦は妻良港内の北側の海岸で、南風に流されて打ち揚がったことが解る。
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第8回古文書解読基礎講座「大坂御台場預け状」

(駿河古文書会会員の伊賀英生講師)

女房は朝から出かけ、お昼にうどんを食べた。昨日の「NHKためしてガッテン」で視たことを試してみた。うどんのつけ汁にスプーン(小)一さじほど、ケチャップを溶いてみた。するとどうだろう、不思議や不思議、ケチャップの味が立つことは無く旨味が増した(ような気がした)。これは色々試してみる価値がありそうだ。

昼食を終えたところに、まーくん母子が来た。昼食はまだだというので、うどんの残りを出した。夕方、帰るまーくん母子に駅まで送ってもらって、靜岡の古文書解読基礎講座に出かけた。来週は出張で欠席になるから、今日が最終回となる。

先週から、伊賀英生講師に替わっているが、先週はデジカメを忘れ、今夜写真を撮った。講師が古文書の勉強を始めたのが、やはりこの古文書解読基礎講座だという。始めたのが平成3年で、図書館から古文書解読の本を借りてたくさん読んだり、駿河古文書会にも入って勉強した。18年経って、今では講師をやっていると話してくれた。

本日の最初は、「大坂御台場預け状」これは自分で勝手にネーミングした。この「預け」は建設から守備の実施まですべてが入っているという。東京のお台場は有名だが、大坂にも幕末にお台場が建設された。知らなかったが、当然のことだろうと思う。その見返りとして、官位や官職をちらつかせて、巧みな大名操縦術だと思った。

安政四丁己五月十五日来たる。

   四月二十八日                松平讃岐守
異国船防禦のため、大坂安治川、木津川、両川口御台場御取立て、大砲据付け候。御船をも御備え仰せ出され候に付、大坂表御警衛仰せ付けられ、木津川口二ヶ所、御台場、その方(ほう)へ御預け遊ばされ候。右御台場御船ならび据付候大炮とも、西洋法仰せ付けられ候あいだ、その心得を以って大炮打方など習練候様、申し付けらるべく候。松平出羽守へも大坂表御警衛仰せ付けられ候。安治川口二ヶ所、御台場御預け遊ばされ候あいだ、申し合わさるべく候。もっとも土屋釆女正へ申し談(はな)さるべく候。

                           松平隠岐守
異国船渡来の節、武州神奈川警衛、仰せ付けられ候。随時出張の積り相心得、防禦の手筈厳重に申し付けらるべく候。

   正四位上                  松平讃岐守
その方儀、当時の御由緒柄出格の思し召を以って、正四位下、仰せ付けられ候後、間合もこれ無く、この上、昇進の儀、及ばれ難き御沙汰筋に候えども、この度大坂表御台場御用、引請け仰せられ候。防禦筋の儀、万端御委任成され候に付、なおまた今般別段の思し召を以って位階昇進仰せ付けられ候儀、相心得られ、御守衛筋の儀、格別入精相励み候様、致すべく候。

※ 出格 - 格式からはみだすこと。破格。
※ 入精 - 魂を込めること。入魂。

                           松平出羽守
異国船防禦のため、大坂安治川、木津川、両川口へ御台場御取立て、大砲据付け、御船をも御備え仰せ出され候。大坂表御警衛仰せ付けられ、安治川口二ヶ所御台場、その方へ御預け遊ばされ候。右御台場御船ならび据付候大炮とも、西洋法仰せ付けられ候あいだ、その心得を以って大炮打ち方など習練候様、申しつけらるべく候。松平讃岐守も大坂表御警衛仰せられ候。木津川口二ヶ所御台場御預け遊ばされ候あいだ、申し合わさるべく候。もっとも土屋釆女正へ申し談さるべく候。これに依って、武州本牧御警衛の儀、御免成され候。

※ 御免 - 役職などを解かれることを、その決定を下す者を敬っていう語。「お役御免」

   思し召これ有り少将            松平出羽守
その方、家督以後年数もこれ無く、未だ若年にて昇進の御沙汰には及ばれ難く候えども、本牧御警衛以来、引続きこの度大坂表御台場御用引請け仰せ付けられ、防禦筋の儀、万端御委任成され候に付、今般格別の思し召を以って仰せ付けられ候儀と相心得られ、御守衛筋の儀、格別入精相励み候様、致すべく候。

    二十七日
   上野火の御番               松平安芸守
   増上寺火の御番              松平土佐守


※ 松平讃岐守  讃州  高松  城主   十二万石
   土屋釆女正  常州  土浦  城主   九万五千石    大坂城代
   松平隠岐守  伊豫  松山  城主   十二万石
   松平出羽守  雲州  松江  国主   十八万六千石
   松平安芸守  芸州  広島  国主   四十二万六千石
   松平土佐守  土州  高知  国主   二十四万二千石
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高校1年の文化祭

(庭のケイトウ)

昨日、高校時代の文化祭の話を書いていて、1年生の文化祭の事を思い出した。自分の高校の文化祭では、3学年で30近くあるクラスが、何かで参加することになっていた。一つは演劇、一つは教室でのテーマを決めた出し物、この二つは書類審査があって数をしぼる。演劇は応募が少なくて書類で落とすことは少ないと思ったが、出し物は応募が多くて半分くらいに絞られたと思う。外れたクラスは合唱コンクールなどに参加したように記憶している。

1年生の我がクラスも何か出し物を出そうと相談した。お化け屋敷、鉄道模型を使ったジオラマなど、上級生のクラスが出すだろう。まずは書類審査が通らなければ参加できない。他のクラスとバッティングしないテーマでないと落とされることは目に見えている。

ソビエト連邦の宇宙飛行士、ユーリイ・ガガーリンが人類初の宇宙飛行を成功させたのは1961年のことで、自分たちが中学3年のときの話せある。当時、若者たちの眼は宇宙に向いていた。おそらく宇宙をテーマにした出し物は幾つか出るだろうと思われた。

皆んなの眼は宇宙に向いている。宇宙はなぞに満ちていて、今まさにその謎が解明されつつある。しかし、地球上には未知の場所がまだまだたくさんあることに気付く。その一つが深海である。我々の出し物では宇宙に向いた眼を海に落として、「深海のなぞ」にせまって行きたい。そんなコンセプトで出せば、書類審査は通るだろうと思った。結果、見事にパスした。1年生で通過したのは二クラスだけだと思う。

クラスを主導したのは自分だったように書いたが、その辺りははっきりしない。人の意見を発展させたのか、あるいは丸乗りしたのか。記憶に残っているのは、自分もそんな風に思ったからである。そのコンセプトの発想方法は45年経った現在の自分の発想と大変似通っている。

さて、書類審査を通って、深海のことがどこまで解っているのだろうと、図書館などで調べた。バチスカーフが1万メートルの深海に到達したのは1960年、まだほんの2年前のことで、深海探査は始まったばかりであった。資料を調べてみて、これは無理だと思った。あまりに資料が少なすぎる。深海は真っ暗で何も無い。児童向けに深海魚が泳いでいる想像図が描かれていたが、それが唯一の深海のイメージであった。熱水鉱床のようなものでも発見されていればやりようがあっただろうが、それはまだ後年のことである。

結局、自分はクラブ活動の展示と掛け持ちになり、余り熱心に準備に参加しなかった。出来上がった出し物は暗幕で囲った真っ暗な中を、深海艇の丸窓から覗かせるという形になった。中には豆電球の光の中に紙粘土で作った深海魚がわずかに見えるだけという、ほとんどが暗闇の出し物になった。出来は散々であった。皆んなの眼が向いていない深海には研究者の眼も向いていなかったのである。
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高校生たちの演劇

(庭のジニア・リネアリス-百日草の仲間)

昨日、午後3時前に帰宅して、NHKのBSを点けると、高校生の演劇をやっていた。NHKの番宣でチラッと情報は聞いていた。見るともなしに見ていて、どんどん引き込まれ、結局、午後6時まで見てしまった。

見たのは、「青春舞台2009-全国高等学校演劇優秀校 東京公演」であった。この夏の第55回全国高等学校演劇大会で優秀校に選ばれた4校の演劇を一挙に上演したものである。見始めたときは、優秀作品の青森中央高校の「ともことサマーキャンプ」の終り掛けで、そのあと、同じく優秀作品の松戸馬橋高校の「赤鬼」、最優秀作品の帯広柏葉高校の「これからごはん」の2作品はフルに見ることが出来た。

「赤鬼」は野田秀樹の脚本。有名な劇らしいので筋書はとにかく、商業演劇を見るようであった。「あの女」と白痴の兄とんび、あの女を狙うミズカネ、浜に現れた赤鬼が入り乱れて、フカヒレのスープを呑んで死んだ「あの女」の死に至る再現劇である。もとは4人の劇だが、学校演劇ゆえに、村人たちを含めた集団劇に構成されていた。

「これからごはん」はエチュード(即興劇)という手法によって造られた。状況や場面、人物の性格だけを設定し、台本無しで役者のアドリブを積み重ねて、少しずつ役者の動作や台詞を創造していく芝居である。一人暮らしの祖母が亡くなり、葬式の朝までの子供や孫たちのドラマである。さしたる事件も起らず、淡々と芝居を進めながら、観客を引き込んで放さない力がある。司会者はまるで小津安次郎の映画を見ているようだと評した。演劇では台詞をしゃべっている役者以外は目立たないようにじっとしていることが多いのだが、この演劇は出演者全員が祖母の遺品を出したり片付けたり、常に動いている。だからこの演劇は台詞をしゃべる人にスポットを当てるテレビ画面ではなくて、生の舞台で見てほしいという演劇評論家の話は頷けた。

45年前、高校2年生の秋、文化祭で演劇実行委員長をやったことを思い出す。亡くなった友人のY君が生徒会長をやっていて、そんな役割りが廻ってきた。参加したクラスが幾つくらいあったのか、どんな演劇が上演されたのか、演劇そのものもほとんど覚えていない。体育館で全校生徒を観客として上演された。審査員も先生方にお願いしたのだろうか。その中に演劇部も参加して同時に上演されたが、昨日テレビで見た高校生の演劇とは、格段にレベルが違った。

記憶に残っているエピソードが二つある。演劇の担当教師に、打ち合わせ時間を5時過ぎに決めて報告したところ、時間外は駄目だと言われた。教師も労働者の一人に過ぎないと気付かされ、大きな失望を感じた。

もう一つは、当時としてはちょっと派手な女子生徒が副委員長になって、廊下などでちょっとした打ち合わせの立ち話などもしたのだろう。そんな姿を見られたのか、ある時3年生の男子生徒に呼び止められ、「おれの女に手を出すな」という意味の言葉を投げられた。そんな気などさらさら無くて、とんだ誤解だと言ったのかどうか。校内にそんな世界もあったのだと驚いた記憶がある。

いずれも演劇とは無関係なエピソードである。
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