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大代白山神社の経塚

(大代の白山神社 - 2008.4.3撮影)

「島田金谷の考古学と歴史」第4回で午後出掛けた。本日のテーマは「白山神社経塚とミョウガ原遺跡」、副題が「古代びとの信仰と祭祀」である。講義の概要を記す。

奈良時代の仏教は南都六宗に代表されるように、学問としての仏教であった。法隆寺は「法隆学問寺」と呼ばれ、お寺の中では学ぶための講堂が重要な施設になっていた。つまり、仏教の眼目は今の世をどう生きるかであった。

ところが、平安時代、1052年から仏の教えが廃れ、末法の世が始まる、この世が乱れて戦乱、飢饉、天変地異が頻発するようになるという末法思想が蔓延って、人々はせめてあの世の平安を求めるようになった。

空也上人や恵心僧都(源信)が開いた、阿弥陀仏と念仏の教えが急速に広まりはじめた。天皇の外戚として、藤原氏が摂政・関白を独占し、政治の実権を握った摂関政治の時代(平安時代中期)、藤原氏は阿弥陀堂を建築してこの世に浄土を実現しようと試みた。中でも藤原頼道が建てた平等院鳳凰堂は現存する阿弥陀堂建築の代表である。

平安時代の後期には政治の実権は藤原氏から上皇や法皇に移り、その庇護のもと、三后・准母・女御・内親王などで、「院」または「門院」の称号を受けた女性、つまり女院が力を持つようになり、法華経への信仰が広まった。法華経は読誦の功徳、写経成仏、女人成仏などをとなえており、女院に歓迎された。仏事供養を華麗に飾り立て、現世に極楽浄土を現出する「荘厳」を施すこことが流行った。また、美しく飾り立てた写経を社寺に奉納することが競って行われた。厳島神社の平家納経はその代表的なものである。

末法思想には続きがある。末法の世はその後1万年続き、弥勒菩薩が出現して新しい仏の世が始まるというのである。その時まで、写経した経巻を伝えたい。見せる荘厳な納経から、人に見せる目的ではない埋経が始まった。今の言葉でいえば、タイムカプセルであろうか。11世紀後半から12世紀にかけて、経筒に経巻を納めて、鏡鑑、刀子(小形の刀)、合子(蓋のある器)などとともに、経塚に埋めることが、全国各地で行われた。

靜岡県にも幾つか発掘されているが、いずれも経巻は朽ちて形態を留めていない。金谷でも、大代の白山神社で2ヶ所から経塚が発掘されている。大代川の左岸、山が迫った岸に神社があり、昭和2年に社殿改築工事に際して偶然に発見された。陶製の経筒が約6個出た。青銅製の鏡に銘があり、「奉納 法華如實経 保延丙辰 正月十八日 勧心 伯鱗秀時 心泉院 當山 繁盛」と解読出来た。「保延丙辰」は1136年、「勧心」は「勧進」で「堂塔・仏像などの建立・修理のため、人々に勧めて寄付を募ること」もちろんここでの勧進は埋経の勧進である。「心泉院」はお寺で神仏習合だったと考えられる。

白山から遠く離れた当地に、白山神社があることが不思議であるが、おそらく天台宗系の修験道の行者が巡ってきて、加持、祈祷、呪術儀礼などを行った跡なのだろう。この地の白山神社は、創建が1331年で、12世紀造立という聖観音菩薩立像と神将形立像がある。経典の埋納は白山神社創建以前に繰り返し行われていたと考えられる。
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