平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
第4回古文書に親しむ「直江大言の事」
9月11日、佐賀県の肥前鹿島駅、昼下がりのホームから撮影。全長40センチメートルほどに見えた。名前が判ったら教えを乞う。
昨日の書き込み、「第4回古文書に親しむ」の続きである。時は秀吉の朝鮮征伐前、上杉景勝の家老、直江山城守兼継が諸侯の前で大言を発した話である。直江山城守兼継といえば、現在進行中の大河ドラマ「天地人」の主人公である。今、旬の人物だから、あえてこの時期に取り上げたと講師は言う。「大平基軍伝」なる読み物がどんなものなのか知らないが、原本から手書きで引き写したものである。歴史的な価値は度外視して、読み物として読んでみようと講師が話す。
以下へ解読後、書き下したものを示すが、変体仮名が多用されていたり、漢字だと思って読み悩んでいると、仮名を何文字か連ねたものであったりと、慣れないと難解な文書である。ただし慣れればもともと一般に読み本として書き写されたものだから、さほど難しいものではないと思った。
大平基軍伝 前篇 巻第二
直江山城守兼継大言の事
並び石田三成、直江に懇志を通する事
太閤すてふ(すちょう)朝鮮征伐の義、思いたち給うに付いて、かの国々の軍用のため、金銀をもって銭を鋳さしめ給う。今ここに至りて、くだんの銭出来しければ、太閤御覧ありてのち諸侯へ見せ給うにより、大老、中老、五奉行をはじめ、あまたの諸侯、伏見に登城し、おのおの列座あり。
※ すてふ(すちょう)- 「てふ」は「という」の転。合わせて「するという」、つまり、「太閤秀吉がするという朝鮮征伐」とつながる。
くだんの銭を取り寄せ、一見ありてよく出来候などと挨拶評定し、めんめん手に取りて誠に重宝の品なりと称美あり。座廻りより段々次へまわし見られけるに、末席に上杉景勝の長臣直江山城守兼継、主人景勝大老の中なれば、所労によりて名代として相詰め居りけん。
※ 長臣 - 寵臣のことか。
※ 所労 - 疲れ。病気。
諸侯方の銭を見終りて末席に至り、田中兵部吉政、次の上に在りしかば、いざ御邊(おこと)へとありて、直江に渡す。兼継、扇子を開き、請けとりて、唯一同見て、元へ返しけるにぞ。兵部心の中に、さては信臣たるによって、座を憚り、かく慇懃にするならんと思いしかば、御邊、今日は主人の名代なり、何か苦しかるべき。遠慮におよばず、手に取りてよく見給えと挨拶す。
※ 御邊(おこと)-(二人称)相手に対して親しみの情をこめて呼ぶ語。そなた。
まだまだ話は始まったばかり、直江の大言壮語は次回の解読となる。
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第4回古文書に親しむ「寺子屋規則(後半)」
午後、第4回「古文書に親しむ」の講座に出席した。まずは、前回読んだ「寺子屋規則」の後半を読んだ。前回は8月22日に講座があり、8月23日のブログに書いている。書き下した文を以下へ示す。
一 絵を書き、習い双紙を切り人形細かくなど致されまじく候。あるいは畳に墨を付け、水をくつがえし、障子を破り候儀は、はなはだ以って粗相の至りに候事。
※ 粗相(そそう) - 不注意や軽率さから過ちを犯すこと。
一 火の用心肝要に候。留守の内、火燵(こたつ)並び油燭の火も大切に致さるべく候。
附り 冬天の時分、水泳に参り候事、怪我の基に候。随分相慎しまれるべき事。
※ 油燭 - 文字のまま読むと、「袖燭」となるが意味が不明で講師は解読できなかった。自分は「油燭」と読んでみた。油を燃やす灯りの意味に取った。
※ 冬天 - 冬の空。
※ 水泳 - 講師は「泳」を「冰」=「氷」(こおり)と読み、「水垢離」の当て字だと読んだが、寒中水泳ということもあるから、文字通り「水泳」と読んでよいのではないかと思った。
一 二度の寺上り並び来たり候節も、騒がしくこれ無き様に致さるべく候。なおまた草履、下駄、雪踏、木履(ぽっくり)、傘などまで、替えざる様に致すべき事。
一 見世店にて買い食い致し候儀、言語道断、見苦しく候。きっと相嗜まるべく候。
附り 子供の談義参り、薬師参りに騒動いたし候儀、無用たるべき事。
※ 見世店 - 講師は「みせや」と読んだが、「店」は(たな)とも読み、「みせだな(見世棚)」という言葉もある。ここでは(みせだな)と読むのが正しいと思う。意味は「商品を陳列する場所。現在の店に相当する」
※ 談義参り - 寺院などに説教・法話を聞きに行くこと。
一 他所(よそ)の手習子どもと出合い、我が師匠を誉め、他の師をそしり、訳もなき諍論これ有りまじく候。
附り 世間の異名を唱へ、あるいは人の癖を真似し、悪口など致さるまじき事。
※ 諍論(じょうろん)- 言い争うこと。
右の條々今度定めて訖(おわんぬ)。一々相守り違背有りまじく候。常に傍輩中相互にいたし、覚束なきところ尋ね合い、慇懃の挨拶もっともに候。年月を重ね習い候文才相忘れ候輩(やから)、詮なき事に候間、随分手習い、読書、相励み申さるべき者なり。
酉十一月 善正寺
※ 訖 -靜岡の講座で「おわんぬ」と読むと教わった。意味は「終わった」という意味。「今度」というから「おわんぬ」が座りがよい。講師は「ことごとく」という読みを取った。
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会話とブログの類似点
テーマがないままに、夜半パソコンの前に座ることが最近多い。このところ出歩くことが少なく、取材が出来ないから、そういう結果となる。今夜もそんな破目になった。
かつては口数の少ない青年であった自分も、会社勤めで40年経ち、歳を重ね経験を積んで、今ではおしゃべりになったと、自他ともに認めるようになった。初対面で話題が全くない人と話すのも、そんなに苦ではない。ちょっとしたヒントからテーマを見つけ、いつの間にか自分の得意分野に話題を呼び込んでいる。そうなると、相手が聞き上手であると、30分、1時間と話し続けていることにふと気付くこともある。
ただし、得意な会話は個人的なもので、多勢の人が居る場で話題を取ったり、人の話に割り込んだりする厚顔さはない。会話をしていて疲れるのは、相手が自分の話を聞く気がない場合や、相手と話題の取り合いになったときである。そんなときは大概黙って人の話を聞くようにしている。どうしてもしゃべりたい場合は、会話に疲れが見えたり、種が尽きたときに、チャンス到来と一気にしゃべる。
今日のような日のブログは、そんな会話の経験と同じ舞台だと思う。そしてブログは、誰も聞いてないかもしれないが、誰かに遮られることもない、自分の独壇場である。
* * * * * * *
来週、在所の兄夫婦が我が家に来ると連絡があり、女房が準備をしている。その幾つかが当方へ振られた。風呂の蛇口がしばらく前からしっかり閉まらず、水滴が落ちるようになっていた。直し方が解ったので、今朝近くのホームセンターで蛇口のパッキンを買ってきた。直すのは思ったより簡単で、水滴の落ちるのは止まった。
次に、兄夫婦に泊まってもらう2階の和室の窓障子を女房と張りかえた。この部屋を増築してから早いもので、もう12年経つ。2階の和室は使うことが少なかったので、障子の張替えは今回が初めてであった。
障子を外へ運び出し、ホースで水を掛けて、障子紙の部分を濡らし糊をうかせる。障子紙はゆっくりはがすと破れずにそのままの形ではがせる。女房は紙が残っても雑巾で拭き取るからよいというが、ここではがさないと雑巾で拭いても桟に残ってしまう。乾くと残った紙が目立って美しくない。女房はどうせ上から紙を張るから問題ないという。何だか中国人の職工との会話を聞くようで面白い。貼る段になって、案の定、糊をつける桟の所々に、障子紙が薄く残っている。すでに乾いていて、今さらはがせないから、その上から糊を塗った。
そういえば、ムサシが引っ掻いた襖の切り張りを頼まれていた。明日やってしまおう。
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1歳3ヶ月、まーくんが来た
午後まーくんが来た。出張していたから久し振りである。美容院に行くママが、女房にまーくんを預けて行ったのである。自分は買い物に出かけ、2時間ほどして戻ってくると、ママも帰っていて、まーくんは昼寝も忘れて騒いでいた。
まーくんは子育て支援センターで、おしゃべりだねぇと言われたらしい。確かにぺちゃくちゃとよくしゃべる。大人には意味不明で何を話しているのか解らないから、意味があってしゃべっているのかとママに聞いてみた。それでも最近は少しずつ意味のある言葉になってきたという。家ではママと、「まーくん!」「ちゃーちゃん!」の掛合いの繰り返しがマイブームになっているというし、支援センターでは遊んでくれる係りの人に、会うたびに「せんせい!」を連発して誉められた。しかし、抱き上げると「パパ!」といい、女房が「じいーじいー」と直そうとするが、爺々とはいまだに呼ばない。無理に直さなくてもよいのに、と思ったが、口には出さなかった。
しゃべり出しの言葉は、赤ん坊は意味を込めて発しているのだろうか。どうもそうではなくて、耳から入った音をなぞって、言葉に出しているのではないかと思う。観察していると、大人のリアクションを求めているようには見えないからである。人間には死後の世界が永遠に判らないように、赤子の心の中は大人には理解できない。大人になれば、その頃のことはすべて記憶から消えてしまうからである。覚えているとすればトラウマになるような強烈な体験ぐらいであろう。
まーくんは今日も額の傷が増えていた。数えると五つあった。歩き始めの頃を思うと随分歩き方がしっかりしてきたが、その分ちょこちょこと動きがすばしっこい。自然、こけることも多く、子供は頭でっかちでバランスが悪くて、頭で受身(?)をするから傷が絶えない。やっぱり、ヘルメットか、ヘッドギアが必要だ。
体重は服を着たままでやっと9kg。身体が軽い分、動きが激しくなる。最近は両手と頭を床に着けて、でんぐり返しをしようとする。もちろん頭が大きく手が短くて腕の筋力もないから、出来るわけが無いのだが、大人が身体を支えてでんぐり返しをさせてやると、大喜びで再び手と頭を床に着けて、でんぐり返しをやれとせがむ。聞いておれば切りがない。
三段のステップになった脚立を出してくると、後にくっ付いて来て、脚立を立てると待ってましたとばかりに、ステッムの一番上までひょいひょいと登ってしまう。手掛かりがあれば、さらにその先まで足を踏み出しそうな勢いである。危ないから大人が手を出してしまうが、手足を使って登る足取りは平らなところを歩くよりしっかりしている。ロッククライマーにでもなるつもりか。
そんなこんなで、まーくんは昼寝も忘れて夕方帰って行った。爺々と婆々はほっと息をついた。
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鹿児島からの帰路に考える
鹿児島出張も今日の午前中で終わり、お昼前に帰路に着く。皇徳寺のバス停から空港バスに乗る。バス停の南方に桜島が見えた。晴れた空に噴煙が見える。
鹿児島空港で昼食を摂った。昼食にしては高いと同行のG氏と話す。鹿児島市内の昼食よりも2割ぐらい高いという印象だった。鹿児島空港は、昼食の価格ではもう鹿児島ではないのである。
鹿児島空港のFDAのカウンターは日航のカウンターのさらに右手、最も隅にあった。便は一日に1便しかないから、人影がない。1時25分に開くとあったから、先に昼食を済ませて、カウンターが開くのを待って、搭乗手続きを行った。日航のユニフォームの係員だったから、FDAから委託されているのであろう。まだ不慣れらしく、マニュアルを見ながら、ずいぶん手間を食った。そこは搭乗手続きだけで、手荷物預けは日航のカウンターで行った。
(鹿児島空港から霧島連峰)
搭乗口のフロアから滑走路が見渡せ、向こう正面に霧島連峰が見える。これほどクリアに見えるのは初めてのような気がする。右のピークが高千穂岳、左のピークが韓国岳、その間にあってやや小高い所が新燃岳である。自分が登ったのは韓国岳のみである。
(FDAのドリームレッド機)
往路と同じドリームブルー機で、乗客は7割ぐらいだろうか。往路の倍ぐらい乗っていた。今日のフライトは天候に恵まれて、揺れることも無く、予定よりも10分早く富士山靜岡空港に着いた。空港にはFDAのもう一機、ドリームレッド機が駐機していた。
富士山靜岡空港からは、無料駐車場に止めていた車でG氏に自宅まで送ってもらった。2時25分に鹿児島空港を飛び立ち、4時半には自宅に着いていた。この便利の良さは抜群である。しかし、聞けば運賃料金がセントレアで降りるよりも、新幹線料金を差し引いても高くなるという。また、本数が一日一本で、時間帯が昼近くでは、せっかく早く着いても、着いた日は仕事にならないし、目一杯仕事をしてから靜岡へ帰るということにもならない。会社の人たちもなかなか使いにくいと言っている。ビジネス客への期待が出来ないとすれば、搭乗率の確保は難しくなる。自分のようなシニア世代なら、時間の余裕もあり、シニア割引も利用できて、使えると思うのだが。
帰ってからテレビニュースを見ていると、経営危機の渦中にあって、デルタ航空などと提携により支援を受けることを検討しているJALが不採算路線の廃止を発表した。その中に就航したばかりの富士山靜岡空港の路線も入っている模様である。富士山靜岡空港は離陸が終らないうちに、路線廃止の乱気流に巻き込まれそうである。前知事はうまく逃げ遂せたが、新知事は就任早々難しい問題を背負うことになる。
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ミョウガ(茗荷)原遺跡
宮崎から鹿児島に戻る途中、車中より桜島が見えた。曇天の中、今日の風向きは西風で、噴煙はどうやら大隅半島の方へ流れているようであった。明日午後、再びFDAの飛行機に乗り帰る予定である。
* * * * * * *
土曜日の「島田金谷の考古学と歴史」講座のつづきである。
島田市湯日ののミョウガ原で、富士山静岡空港の工事に伴い発掘したところ、古代の地方における地鎮祭祀の遺構が発掘された。平安時代から鎌倉時代のものと考えられている。
建物の建築に際して地の神様を鎮める地鎮鎮壇(現在の地鎮祭)が行われたことは「覚禅抄」(覚禅:1143~?の図像集)に書かれていて知られていたが、その遺跡が発見されたのは初めてだという。
発掘されたには、東西南北とその中央に十字に配されて穿たれた5基の土坑である。土坑の底面には円礫が敷かれている。円礫はそれぞれの穴で色を揃えてあった。東の土坑は青玉、西は白玉、南は赤玉、北も赤玉、中央は赤白青の混在であった。5つの土坑の内、3ヶ所からは灰色陶器の長頸瓶が土師器の蓋付で引っ繰り返した形で発掘された。
「覚禅抄」を少しだけ読んでみると、
小野伝に云う。地鎮、壇を築かない以前にこれを行う。この地を請ける諸神地主などを乞う。‥‥‥‥
口伝に云う。金銅賢瓶一口。五寸、五宝などを入れ蓋を覆す。五色糸を以ってこれを結ぶ。本様有り。(金銅瓶の形が図示されている)しかる後に地にこれを埋める。埋めるとき大日真言。丼地天真言。本地四方へ五色玉、五穀粥を埋めるべし。‥‥‥‥
小野説は加えて五色玉を埋め、広沢伝、五色石。云々。(玉ではなく石でもよいようだ)‥‥‥‥
天文修蔵に云う。東-青玉二十四個瑠璃、南-赤玉21個琥珀、西-白玉27個白石英、北-黒玉12個黒石英、中-黄玉20個黄石英‥‥‥‥
五色玉が五色石になっており、色も一部合っていないし、金銅瓶が陶器に変っている。しかし引っ繰り返してある点など、地方で「覚禅抄」に書かれた方法を、出来る方法でなぞったことは明らかである。
東西南北中央を五色の色で示す点など、青龍、朱雀、白虎、玄武、黄龍などで方角を示す陰陽道の考え方が色濃く影を落としている。この青朱白玄の色は人生を四季で表す、青春、朱夏、白秋、玄冬などの言葉でも良く知られている。
ミョウガ原遺跡は調査のあと、高床倉庫や住居跡とともに埋め戻されて、現在富士山静岡空港の敷地に埋まっている。
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桜島の噴火とイチローの新記録
昨夕、ホテルから夕食に出かけようと交差点で信号待ちしていると、向かいのうどんのチェーン店の屋根の上、少し顔が見える桜島から黒い噴煙が音も無く上がって、南へ流されるのが見えた。活動期に入ったとは聞いていたが噴煙を目の辺りにするのは久しぶりであった。道路の端が砂っぽいのは火山灰であろう。
昨日は北風で火山灰は南に流れて鹿児島市内には来ないようだが、東風が吹くと市内に火山灰が降り注ぐ。小じゃれた鹿児島中央駅広場や天文館も灰にくすんで惨めな状態になる。鹿児島はまたしばらく火山灰との戦いが続くのであろう。
昨夜、9年連続の2千本安打にあと2本と迫ったマリナーズのイチロー、日本時間の今朝未明から始まるレンジャーズとのダブルヘッダーで2000本を掛けて出場するというので、ホテルで宵寝して、未明にテレビを点けた。ところが雨で試合開始が延びて、朝起きたころ、4時間雨が止むのを待って朝6時過ぎからダブルヘッダーが始まった。少ないながらも観客もいて、熱心さに感心した。一試合目の第2打席でレフト線へ2ベースを打ち、ついに王手が掛かった。
気になりながら午前中仕事をしていると、イチロー2000本安打の報がどこからと無く伝わってきた。お昼に入った食堂のニュースによれば、イチローはダブルヘッダーの2試合目の第2打席、ショートへの内野安打で、イチローらしく9年連続200本安打を飾った。イチローの試合後のインタビューで、4年連続となった5年前に、すでに夫婦して9年連続の200本安打を夢見ていたというからすごいの一語に尽きる。
イチローは先日の大リーグの2000本安打達成のときも、今日の9年連続200本の新記録も、ほとんどプレッシャーらしきものを感じさせないで、こともなげに達成してしまった。かつてプレッシャーで記録を前に足踏みして観客をやきもきさせたこともあり、その克服を自分の目標に掲げた年もあった。しかし彼はプレッシャーももう過去のものにしてしまったようだ。
そのイチローがこの春、侍ジャパンが優勝したWBCではプレッシャーの余り胃潰瘍になってしまったと聞いた。日の丸を背負うということが如何に大変なことかを、我々に悟らせてくれるエピソードである。野球がチーム競技であること、イチローがそのリーダーであったこと、日本がディフェンディングチャンピオンだったこと、そんなこんなが重なって、より大きな波になりイチローを襲ったのであろう。一方、ピッチャーのリーダーだった松坂大輔は結局この一年を棒に振ってしまった。
ともあれ、記録達成はめでたい。それでもイチローにとってゴールではない。国民栄誉賞をといえば、まだまだ野球人生の途中だからと断るに違いない。
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初乗りFDA鹿児島便
本日より鹿児島へ出張。富士山静岡空港からフジドリームエアラインズ(FDA)の鹿児島便に初めて乗った。搭乗券は同行のG氏が取ってくれた。聞くと、運賃は60歳以上はドリームシニアで26800円であった。シニアの割引は定価からは14000円引きになっている。シニア割引と聞くとニヤリとする自分がいる。特割はあるけれども、定価が40800円というのは高すぎると思う。鹿児島の人たちの話では、セントレアへ降りて来た方がはるかに安いと話していた。
フジドリームエアラインズは富士山静岡空港を拠点に設立された航空会社で、鈴与の100%子会社である。この7月23日より就航した。路線は現在、静岡-小松線、静岡-熊本線、静岡-鹿児島線の3路線だけである。運航する機体はエンブラエル170型機で、赤とライトブルーの2機だけである。
昨夜、夕立で激しい雨が屋根を叩いた。久しぶりの恵みの雨であった。明けて今朝は快晴、秋風が吹いて急に涼しくなった。空港では11時にG氏と待ち合わせた。空港までハイキングの団体が取付け道路をたくさん歩いていた。見学者で随分賑やかであった。
鹿児島便のスカイブルーの機体がポツンと一機だけ止まっていた。搭乗者は76席のうち、3分の1ほどであろうか。ビジネス客が期待できない日曜日は特に乗客が少なかったのかもしれない。富士山もしっかりと見えていた。今は富士山に雪が無いが、初冠雪も近いことであろう。
搭乗して滑走路脇で待つ内に、熊本から戻ってきたレッドのFDA機が遠州灘方面から降りてきた。今日は北西の風がやや強く、掛川方面へ飛び立った。ずいぶん急角度で上昇しているように感じた。1時間半弱で鹿児島空港に着いた。10時半に家を出て、2時には鹿児島空港に着いているのだから、速いには速い。ただ到着時間が中途半端で、その日、鹿児島でビジネスにしろ観光にしろ動くには時間がなく、ホテルに入るには早すぎた。
他にはさしたる感動もなく、機体が小さいだけでセントレアから乗るのとそんなに変らなかった。ただフライトアテンダントの女性の一人は就航記念の冊子に載っていた顔であった。
スチュワーデスがいつからフライトアテンダントと呼び名が変ったのだろう。男女雇用均等の精神から変えたのであろうが、看護師の呼び名も同じで、名前だけ変えても労働条件など実質が何も変らないのでは意味が無い。いかにもお役所の考えそうなことである。スチュワーデスと呼ばれていた頃は、待遇も良くて若い女性たちの憧れの職業であったが、フライトアテンダントと呼び名が変わって、条件も下がり憧れの職業でなくなったように見えるのは皮肉である。それにしても、記述する時はわざわざ女性と断りたくなる。スチュワーデスならそんな必要が無い。せっかく良いイメージの言葉を一律の基準で排除してしまうのは文化の破壊だと思う。(ちょっと大げさか)
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大代白山神社の経塚
「島田金谷の考古学と歴史」第4回で午後出掛けた。本日のテーマは「白山神社経塚とミョウガ原遺跡」、副題が「古代びとの信仰と祭祀」である。講義の概要を記す。
奈良時代の仏教は南都六宗に代表されるように、学問としての仏教であった。法隆寺は「法隆学問寺」と呼ばれ、お寺の中では学ぶための講堂が重要な施設になっていた。つまり、仏教の眼目は今の世をどう生きるかであった。
ところが、平安時代、1052年から仏の教えが廃れ、末法の世が始まる、この世が乱れて戦乱、飢饉、天変地異が頻発するようになるという末法思想が蔓延って、人々はせめてあの世の平安を求めるようになった。
空也上人や恵心僧都(源信)が開いた、阿弥陀仏と念仏の教えが急速に広まりはじめた。天皇の外戚として、藤原氏が摂政・関白を独占し、政治の実権を握った摂関政治の時代(平安時代中期)、藤原氏は阿弥陀堂を建築してこの世に浄土を実現しようと試みた。中でも藤原頼道が建てた平等院鳳凰堂は現存する阿弥陀堂建築の代表である。
平安時代の後期には政治の実権は藤原氏から上皇や法皇に移り、その庇護のもと、三后・准母・女御・内親王などで、「院」または「門院」の称号を受けた女性、つまり女院が力を持つようになり、法華経への信仰が広まった。法華経は読誦の功徳、写経成仏、女人成仏などをとなえており、女院に歓迎された。仏事供養を華麗に飾り立て、現世に極楽浄土を現出する「荘厳」を施すこことが流行った。また、美しく飾り立てた写経を社寺に奉納することが競って行われた。厳島神社の平家納経はその代表的なものである。
末法思想には続きがある。末法の世はその後1万年続き、弥勒菩薩が出現して新しい仏の世が始まるというのである。その時まで、写経した経巻を伝えたい。見せる荘厳な納経から、人に見せる目的ではない埋経が始まった。今の言葉でいえば、タイムカプセルであろうか。11世紀後半から12世紀にかけて、経筒に経巻を納めて、鏡鑑、刀子(小形の刀)、合子(蓋のある器)などとともに、経塚に埋めることが、全国各地で行われた。
靜岡県にも幾つか発掘されているが、いずれも経巻は朽ちて形態を留めていない。金谷でも、大代の白山神社で2ヶ所から経塚が発掘されている。大代川の左岸、山が迫った岸に神社があり、昭和2年に社殿改築工事に際して偶然に発見された。陶製の経筒が約6個出た。青銅製の鏡に銘があり、「奉納 法華如實経 保延丙辰 正月十八日 勧心 伯鱗秀時 心泉院 當山 繁盛」と解読出来た。「保延丙辰」は1136年、「勧心」は「勧進」で「堂塔・仏像などの建立・修理のため、人々に勧めて寄付を募ること」もちろんここでの勧進は埋経の勧進である。「心泉院」はお寺で神仏習合だったと考えられる。
白山から遠く離れた当地に、白山神社があることが不思議であるが、おそらく天台宗系の修験道の行者が巡ってきて、加持、祈祷、呪術儀礼などを行った跡なのだろう。この地の白山神社は、創建が1331年で、12世紀造立という聖観音菩薩立像と神将形立像がある。経典の埋納は白山神社創建以前に繰り返し行われていたと考えられる。
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民主党新政権と国の約束事
今日は、出張で、佐賀県の嬉野にいた。聞いていると、会社の地元責任者のケイタイに次々に情報が入ってくる。今朝、一斉に各地に農水省から連絡があり、補正予算で実施するとして内示があった事業が、ことごとく一時進行をストップするとの話であった。すでに準備に取り掛かっていた責任者が頭を抱える。景気刺激策として実施が急がれた事業に待ったが掛かると、景気浮揚の雰囲気に水をぶっ掛ける結果になりかねない。
もちろん、民主党政権がまだ出来ていないので、中止になると決まったわけではない。しかし、色々な報道が出てくると、官僚たちが先回りして、新政権におもねるように、そんな指示を流し始める。そんな動きに東国原宮崎県知事が内示のあった事業を取りやめるなら、法的な提訴もじざないと、釘を刺した。内示があればすべてが一斉に準備を始める。国がそこまで来て中止するならば、準備のために要した損害を賠償するべきである。
象徴的なのは、群馬県の「八ツ場(やんば)ダム」である。民主党は八ツ場ダムの工事中止をマニフェストに明記した。しかしマニュフェストに載せる前に、その影響を十分調査したようにはみえない。地元の意見も聴取した形跡はない。それどころか、群馬県のその選挙区には民主党は候補者すら立てていない。八ツ場ダムの周辺の県は水利権を得るために莫大な金額の税金を投入している。中止となれば、国は自ら投入した税金を捨てるだけではなくて、それらの補償もしなければならない。そのためには完成させる以上に新たな税金投入が必要だと試算されている。
猛反対の水没する地元住民を、長い年月を掛けて騙すようにして諦めさせてきた。それを今さら止めるなどというのは、大きな裏切り行為である。中止するならば、壊してしまった故郷を元に戻して欲しいという地元住民の声は切実である。物理的に壊した風景は時間と金を掛ければ元に戻すことが出来るかもしれない。しかし壊れた山村のコミュニティはもはや元には戻せないだろう。
初めての政権交代で、国が約束してきた一つ一つのことを、どこまでを引き継いで、どこからは変更が出来るのか、そんな暗黙のルールすらまだ出来ていない。すべてをご破算に出来るならば、それは政権交代ではなくて革命である。有権者は決して革命を選んだ訳ではない。
民主党がやろうとしている政策は、自民党では絶対に出来なかったことばかりで、国民の多数が期待している。その一方で、国が約束してきたすべてをご破算にするような暴挙を、国民は大変不安に思って注目している。
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