ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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安重根は犯罪者であり、「英雄」ではない8

2013-12-26 08:46:20 | 歴史
●伊藤・安の息子たちは和解している

 伊藤の死後、伊藤を弔うために、京城(現ソウル)に博文寺が建立された。安重根の息子・安俊生は、伊藤の死後30年となる年、1939年10月15日に博文寺を参拝し、博文に対して焼香した。翌10月16日には、朝鮮ホテルで伊藤博文の息子である伊藤文吉と面会した。
 10月16日付の京城日報は、「亡父の贖罪は報国の誠意で」という題名の下に、「伊藤公の霊前に頭を下げる」「 運命の息子俊生(重根の遺子)君」という副題で、俊生が前日博文寺を訪れて伊藤の霊前に焼香して、 準備した安重根の位牌を奉って追善法要を挙行した という行跡を伝えた。
 面会の席で安俊生は「死んだ父の罪を私が贖罪して全力で報国の最善をつくしたい」という意志を表明した。こうして、伊藤博文と安重根の息子たちは、和解した。


安俊生(前列左)と伊藤文吉(前列右)

 戦後、安俊生は韓国でひっそり暮らした。その息子つまり安重根の孫となる安雄浩は米国に移民し中国系女性と結婚した。さらにその息子つまり安重根のひ孫が今年(平成25年)、伊藤博文暗殺事件104周年記念で韓国を訪れた。ひ孫は50歳で、トニー・アン・ジュニアといい、韓国語もしゃべれない米国人となっていたという。これが韓国の「民族の英雄」の子孫の系譜である。

●真犯人は別にいる

 伊藤博文暗殺事件は、謎の多い事件である。安重根が暗殺の実行犯の一人だったことは間違いない。だが、実際に伊藤を射殺したのは、別の人間と考えられる。安重根が使ったのはブローニング拳銃だが、伊藤が被弾したのはフランス騎馬隊のカービン銃のものだったという証言がある。伊藤に命中した弾丸は、安重根の拳銃から発射されたものではないとすれば、安重根は暗殺の実行犯の一人ではあるが、真犯人は別におり、安が罪を負う形とした可能性がある。
 事件から11日後の1909年(明治42年)11月7日、韓国統監・曾禰荒助(そね・あらすけ)は桂太郎首相に、次のような機密電文を送った。
 「真の凶行担当者は、安重根の成功とともに逃亡したのではないか。今、ウラジオストク方面の消息に通ずる者の言うところに照し、凶行首謀者及び凶行の任に当たった疑のある者を挙げると、左の数人となるだろう」
曾禰は朝鮮人25人を挙げる。安重根の名前もその中にある。だが曾禰は「真の凶行担当者」は逃亡したのではないかとみている。ウラジオストクはロシア領である。安はその地で抗日闘争を行っていた。当然、帝政ロシアの官憲の容認なり保護なりがなければ、テロ活動はできない。伊藤が襲撃されたハルピンは、当時帝政ロシアの租借地だった。まずこのことが重要である。
 事件から30年ほどたってから、真犯人は別にいるという説が現れた。ノンフィクション作家・大野芳氏は、著書『伊藤博文暗殺事件~闇に葬られた真犯人』(新潮社)が、その説をもとに考察を行っている。
 外交官上がりの貴族院議員・室田義文は、伊藤暗殺事件の現場にいた。伊藤の随行員として伊藤から約3メートルという至近距離で事件を目撃した。自分も被弾した。その室田が言う。
 「伊藤公の傷あとを調べると、弾丸はいずれも右肩から左下へ向っている。もし、安重根が撃った弾ならば、下から上へ走ってゆかねばならない」「上から下に向っている弾道を見ると、これはどうしてもプラットホームの上の食堂あたりから撃ったものと想像される」と。
 安重根は、地上で伊藤に近づいて拳銃を撃った。室田は、銃声を聞いた直後、ロシア兵の股ぐらから銃を突き出している者を見た。狙撃者(スナイパー)は、しばしば全体が見渡せる高い位置に陣取って、身を隠す。当時、ハルピン駅の駅舎には2階があった。室田によると、その建物は部屋数が多く、いずれの部屋にも大形の窓があるので、兇徒が紛れ込んで潜伏するには都合がよい作りだった。伊藤射殺の真犯人は、そこから伊藤を狙撃し、テロの混乱に乗じて逃亡したのではないか。
室田は言う。「弾丸を調べてみるとすべて13連発の騎馬銃のものだった。蔵相ココツェフが後で、その前夜騎馬銃をもった韓国人を認めたと言っていることも思い合わせると、安重根のほか意外なところに別の犯人がいるのではないだろうか」と。
 室田は、事件直後の特別列車と移送先で、医師の処置に立ち会った。伊藤には3発の銃弾が命中した。1発は肉を削いで体外に出た。体内に残っていた2発の銃弾はフランス騎馬隊のカービン銃のものだった。安重根が用いたのは、ブローニング拳銃である。銃弾が異なる。これは決定的な証拠となりうる。室田は右肩を砕いて右乳下に止まった弾丸と右腕関節を貫通して臍下(へそした)に止まった弾丸を現認している。盲管銃創の2発は、遺体を傷つけないよう体内に残したという。だが、医師の診断書には銃弾の種類は記載されていない。検事の調書には室田が騎兵銃について述べた記録はなく、安重根を裁いた公判記録のどこにも騎兵銃の文字はない。遺体の処置に当たった医師の談話にも騎兵銃は出てこない。室田の思い込みか、創作か。
 事件において、伊藤が浴びた3発の他に、室田ら随行員5人が計10ヵ所を被弾していた。安重根が握っていたブローニング拳銃は装弾数が7発で、残弾が1発あった。6発しか撃っていないのに、13ヵ所の銃痕は説明がつかない。一人の衣服を貫通した弾が別の人間に当たった可能性を含めて考えても、被害が多すぎる。安重根以外に、凶弾を密かに放った者がいたに違いない。そして、室田が証言するように、伊藤に命中したのは、騎兵銃だったとすれば、別に狙撃者がいたのである。

 次回に続く。

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