ほそかわ・かずひこの BLOG

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キリスト教101~人権の観念の発生

2018-09-13 10:29:37 | 心と宗教
●人権の観念の発生

 17世紀イギリスで、後代の世界で重要になる観念の一つが発生した。いわゆる人権である。人権は、西方キリスト教圏において、自由な状態への権利として発生し、発達してきたものである。拙稿「人権――その起源と目標」に書いたように、人権は普遍的・生得的な「人間の権利」ではなく、歴史的・社会的・文化的に発達した「人間的な権利」である。あくまで近代の西欧という時間と空間において、歴史的・社会的・文化的に発達してきた権利である。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03i.htm
 そして、この人権の観念のもとには、キリスト教の観念が存在する。
 人権と呼ばれるようになった権利を最初に提起したのは、17世紀前半のトマス・ホッブスだった。ホッブスは、イギリスで歴史的に形成された「臣民の権利」とは異なる自然権(natural rights)を主張した。自然権は自然法(the law of nature)という思想に基づくものだった。
 自然法は、人間がつくった人定法とは異なり、時と所を超越した普遍的な法を意味する。自然法の概念は、古代ギリシャのポリスの枠組みを越えたコスモポリタン(世界市民)の思想に始まる。ギリシャの異邦人ゼノンを始祖とし、ローマではキケロらが発展させたストア派は、自然法を人間の意志を超越した宇宙の法則を意味するものとし、宇宙と人間をともに貫く自然法に従って生きる哲学を説いた。
 キリスト教は、教義を体系化するために、プラトンやアリストテレス、ストア派の哲学を取り入れた。自然法は、それによって理論化されたものである。だが、キリスト教では、神は言葉によって天地を創造したとし、自然は神の被造物であり、神の支配下にあると考える。また人間は神の似姿として造られ、知恵を与えられているとする。中世西欧では、こうした教義のもとに、自然法は神の意思による宇宙と社会の秩序とされた。自然法は、神が定めた宇宙の法則であるとともに、神が人間に与えた道徳の原理を意味した。
 教父アウグスティヌスは、5世紀に『神の国』にて、「神の国には完全無欠な神の永遠法が支配するが、地の国には罪ある人間の不完全な人定法しかありえない。しかし愛の神は、人間に理性の能力を授け永遠法の一部を認識して人定法の模範とさせるようにした。これが自然法である」と書いた。またトマス・アクィナスは、13世紀に『神学大全』にて、聖書が啓示し教皇が命ずる法を神法とし、自然法の上に置いた。人間は神の叡智を理性として分有しており、自然法を理解できるが、人間には神の栄光に浴すには決定的な限界があり、これを超えられるのは信仰によってのみであるとした。
 中世西欧では、カトリック教会の権威によって、人定法、自然法の上にある神の永遠法や神法の解釈は教会に委ねられていた。しかし、地動説、宗教改革、宗教戦争等によって、教会の権威は大きく揺らいだ。そうしたなか、グロティウスは、ドイツ30年戦争後の1625年に刊行された『戦争と平和の法』で、自然法を「正しい理性の命令」と定義した。自然法は神の意思に基づくものだが、たとえ神が存在しないと仮定しても妥当するし、その定めは神さえ変えることができない不変なものであると主張した。ルターやカルヴァンは、信仰のあり方について教会の権威に抗議したが、グロティウスは信仰より理性を重視する自然法論を説くことで、教会の権威を相対化したのである。
 グロティウスに続いて、ホッブスは、著書『リヴァイアサン』(1651年)で、独自の自然法論を展開した。そして、人権の概念の最初のものとなる自然権の概念を提起した。ホッブスの思想は、自然法論におけるコペルニクス的転回といわれる。
 先に簡単に触れたトマスの自然法論には、自然法則(lex naturalis)と自然的正(ius naturale)という二つの領域があった。前者は、神の根本法則である永遠法の人間理性における分有であり、人間の道徳の原理を含む概念である。後者は、事物の本性に基づく正しい状態・事柄である。  
 トマスにおいて、自然法則は、人間の事物・生物・理性という三相に基づく本性の傾向、すなわち自己保存、種の保存、神の認識と共生の傾向から導かれ、モーゼの十戒に集約される。法的な正義は「共通善」(bonum commune)を基準とした。プラトン、アリストテレスは公共善を正義としたが、トマスの共通善はその公共善を継承したもので、神、教会、共同体への義務が強調された。
 だが、自然科学が発達して科学的な世界観が登場し、また宗教改革により個人の意識が発達すると、共通善に替わるものとして、個人の自由と権利が追求されるようになった。自然権は、この個人の自由と権利に係る概念である。その先鞭を切ったのが、ホッブスである。
 ホッブスは、『リヴァイアサン』に、次のように書いている。
 「自然法則(a law of nature、lex naturalis)とは、理性によって発見された戒律または一般法則である」
 「著作者たちが、一般に自然的正(ius naturale)と呼ぶ自然権(the right of nature)とは、各人が、彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の欲するままに彼自身の力を用いるという、各人の自由である。したがって、彼の判断と理性において、そのために最も適当な手段だと思われるあらゆることを行う自由である」。
 重要なのは、ホッブスが「自然的正」を「自然権」だとし、「各人の自由」だと主張していることである。ここには飛躍がある。トマスの自然法論における「自然的正」は、「自然法則」に基づく事物の本性に基づく正しい状態・事柄だが、ホッブスは「自然的正」を人間の自由だとする。
 ここに自然法の理解にコペルニクス的転回が起こった。ホッブスは、自然法に基づく自然権によって、人間が契約を結び、国家を設立したと説いた。社会契約論の始めである。その理論は人権論であり、主権論であり、国家論でもある。
 ホッブスによって、人権の観念の萌芽が現れた。この萌芽は、西方キリスト教という土壌から現れたものである。ただし、ホッブスは自身は唯物論者であり、キリスト教的な神を思考から排除していた。

 次回に続く。

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