ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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インド68~反英闘争、第1次世界大戦、ナショナリズムの発達

2020-04-04 10:21:23 | 心と宗教
●反英闘争とイギリスの対応

 反英闘争の初期の指導者に、サレンドラナート・バネルジーがいる。バネルジーは、英語教育を受け、インド高等文官試験に合格し、治安副判事に任命された。だが、イギリス人の上司と対立したため、不当な理由で解任された。それを機にインド人に対する差別待遇に抗議する運動を始め、1876年にインド人協会を設立した。これが、インドのナショナリズムの最初の組織的運動となった。翌年のインド帝国の創建後、バネルジーは運動を拡大し、彼の提唱で、1883年に全インド国民協議会の第1回大会が開催された。宗教の違いを超えて、約100人の代議員が参加した。苛酷な植民地支配に対する農民の不満が鬱積し、各地で民衆の反英感情が高まっていった。
 これに対し、イギリスは、イギリスに協調的な組織をつくるため、1885年にインド国民会議を開催した。会議参加者は、国民会議派といわれる政治勢力となった。親英的な知識人や上層階級が中心だった。バネルジーも国民会議に参加し、漸進的な改革を求めた。
 こうしてイギリスは穏健派を組織する一方、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用する分割統治を画策して、1905年にベンガル分割令を強行しようとした。これに対し、国民会議急進派のバール・ガンガーダル・ティラクは、スワラージ(独立)は民族の生得の権利であると主張し、民族産業の奨励、イギリス商品の排斥を説き、自治と民族教育を要求した。イギリスは急進派を弾圧するとともに、インド・ムスリム連盟の結成を支援し、宗教的対立を利用して独立運動を抑えようとした。
 この段階におけるインドの反英闘争は、イギリスの宗主権を認めた上で、自治の実現を目指すものが主流だった。イギリスは、一定の譲歩を示し、1909年にインド統治法を改正して、改革を行った。モーリー=ミントー改革と呼ばれる。これによって、中央・各州の立法参議会の委員選出に一部選挙制が採用され、インド人の選出が可能になった。だが、イスラーム教徒に有利な制度となっており、国民会議派の孤立を図るものだった。

●第1次世界大戦とナショナリズムの発達

 1914年7月、ヨーロッパで第1次世界大戦が勃発した。インドでは、この大戦を自治権実現の好機と考える独立運動家が現れた。その一人が、ラス・ビハリー・ボースである。1915年に彼らによる武装蜂起が失敗したラホール事件が起こった。約4000人が逮捕され、約800人が処刑された。事件の首謀者として、ボースはイギリス官憲に追われる立場となり、日本に亡命した。頭山満に匿われ、東京・新宿の中村屋の長女・相馬淑子と結婚し、日本に初めて本格的なカレーを伝えたことで知られる。
 大戦が続くなか、インド植民地はイギリスに協力し、多くのインド人が徴兵に応じてイギリス軍に参加した。すると、宗主国内でもインドに一定の自治を認めるべきとの声が上がるようになった。これに応じて、1917年にインド担当国務大臣モンタギューは、大戦後にインド人の自治制度を拡大し、責任政府の樹立を実現することを約束する声明を出した。
 しかし、イギリスは、大戦末期にインドで植民地支配に抵抗するナショナリズムが高まると、1919年3月、令状なしの逮捕・投獄を認めるローラット法を制定し、治安維持を強化して運動を弾圧した。ここで国民会議派の指導者として活躍したのが、インドを独立に導いたガンディーである。

 次回に続く。

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