●インドの分離独立と宗教対立
大戦終結後も、イギリスはインドの独立運動への弾圧を続けた。だが、これを抑えきれないと見て、1947年7月、議会でインド独立法が可決された。
ガンディーは、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が融合して一つの国家として独立することを願い、両教徒の融和に努めた。だが、彼の必死の説得にもかかわらず、国民会議派はムスリムとの分離独立を容認した。同年8月、インドは独立を成し遂げたものの、パキスタンとの分離独立となった。ヒンドゥー教徒が大多数を占めるインドに対し、イスラーム教徒が多い地域が別の国家となったものである。ガンディーの理想は実現できなかった。
ヒンドゥー教徒・スィク教徒とイスラーム教徒が混在する地域では、それぞれがインドとパキスタンに移動した。移動中、衝突事件が相次いで起こった。多くの犠牲者が出て、両国民に深い傷跡を残した。宗教の違いはあれども共存していた人々が分裂し、対立・抗争することになったのである。
分離独立後間もない1947年10月、インドとパキスタンは、カシミールの帰属をめぐって戦った。第1次印パ戦争である。ガンディーは、ムスリムとの対話を続け、ヒンドゥー教徒の傲慢を戒めた。だが、ヒンドゥー教の原理主義者からは、ムスリムに譲歩し過ぎるとして敵視された。印パ戦争の最中である1948年1月30日、ガンディーは、デリーで狂信的な青年ヒンドゥー教徒によって暗殺された。翌日、ガンディーの葬儀は、国葬として営まれた。
ガンディーは、志の成らぬまま、凶弾に斃れた。だが、彼の非暴力・不服従運動は、その後、世界各地の民族解放運動や人権運動等に大きな影響を与えている。マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師、ダライ・ラマ14世は、ガンディーの思想に学んだことを公言している。
●独立後のインドの歩み
独立後のインドは、インド人とともに血を流して独立に協力した日本に対して、大変友好的な態度を取っている。インド政府は戦争賠償の請求を放棄した。初代首相となったネルーは、東京裁判にインド代表としてパール判事を送り、パールは「日本無罪論」を唱えた。ネルーは、日本が独立を回復すると、日本の国連加入を支援した。インドは、世界中で最も親日的な国の一つである。
ネルーは、国内政治では開発経済政策を掲げ、ガンディーが反対していた産業の機械化・工業化を積極的に推し進めた。それによって、インドは貧困と不衛生から脱する道を歩み出した。
戦後世界で、インドは、その存在感を増してきた。1954年(昭和29年)に、ネルー首相は、中国の周恩来首相と会談し、領土と主権の相互尊重や内政不干渉等からなる平和5原則を発表した。1955年に、インドネシアのバンドンでアジア諸国と若干のアフリカ諸国、計29カ国の代表の参加の下に、第1回アジア・アフリカ会議が開催された。この会議では、先の平和5原則を拡大した平和10原則が採択された。1961年には、ネルー首相、ユーゴスラビアのチトー大統領、エジプトのナーセル大統領の提唱により、25カ国が参加する非同盟諸国首脳会議が開かれた。非同盟主義の諸国は、東西両陣営に属さず、米ソ・先進国中心の国際秩序に異議申し立てを行う勢力となった。
宗教対立が根底にあるインドとパキスタンの対立は根深い。1965年9月に第2次、71年12月に第3次印パ戦争が起こった。互いに核武装を目指し、1998年5月、印パ両国が相次いで核実験を実施した。両国の対立は、アジア諸国内の不安定要因となっている。双方が核兵器を持っている点では、中東のイスラエルとイスラーム教諸国の関係よりも、インドとパキスタンの対立は深刻である。
インド国内でも、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立が続いている。1971年に、イスラーム教徒が多い東部地域が、インドからバングラデシュとして独立した。また、インドのジャンム・カシミール州では、1990年以来、州人口の90%以上を占めるイスラーム教徒が、分離独立運動を起こし、反印闘争を展開している。
さて、第2次世界大戦後、日本が1960年代に高度経済成長を遂げたのに続き、70年代には日本と関係の深い韓国、台湾、香港、シンガポールなど、NIES(新興工業経済地域)と呼ばれる国々が急速に発展した。80年代にはタイ、マレーシアとともにインドも、工業化政策を進めて経済開発に成功した。80年代後半以降は、日本の海外投資により東アジアの経済成長はさらに加速し、「東アジアの奇跡」「世界の成長センター」などと称されるまでになった。90年代からは、市場経済を導入した中国が経済成長の軌道に乗り、これに続いてインドも、成長の道を力強く進んでいる。
西洋文明諸国の進出以来、インド文明の精神的伝統は抑圧されてきた。だが、インドが独立し、経済的に発展するとともに、ダルマに象徴される精神文化が世界的に再評価されてきている。
次回に続く。
************* 著書のご案内 ****************
『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
************************************
大戦終結後も、イギリスはインドの独立運動への弾圧を続けた。だが、これを抑えきれないと見て、1947年7月、議会でインド独立法が可決された。
ガンディーは、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が融合して一つの国家として独立することを願い、両教徒の融和に努めた。だが、彼の必死の説得にもかかわらず、国民会議派はムスリムとの分離独立を容認した。同年8月、インドは独立を成し遂げたものの、パキスタンとの分離独立となった。ヒンドゥー教徒が大多数を占めるインドに対し、イスラーム教徒が多い地域が別の国家となったものである。ガンディーの理想は実現できなかった。
ヒンドゥー教徒・スィク教徒とイスラーム教徒が混在する地域では、それぞれがインドとパキスタンに移動した。移動中、衝突事件が相次いで起こった。多くの犠牲者が出て、両国民に深い傷跡を残した。宗教の違いはあれども共存していた人々が分裂し、対立・抗争することになったのである。
分離独立後間もない1947年10月、インドとパキスタンは、カシミールの帰属をめぐって戦った。第1次印パ戦争である。ガンディーは、ムスリムとの対話を続け、ヒンドゥー教徒の傲慢を戒めた。だが、ヒンドゥー教の原理主義者からは、ムスリムに譲歩し過ぎるとして敵視された。印パ戦争の最中である1948年1月30日、ガンディーは、デリーで狂信的な青年ヒンドゥー教徒によって暗殺された。翌日、ガンディーの葬儀は、国葬として営まれた。
ガンディーは、志の成らぬまま、凶弾に斃れた。だが、彼の非暴力・不服従運動は、その後、世界各地の民族解放運動や人権運動等に大きな影響を与えている。マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師、ダライ・ラマ14世は、ガンディーの思想に学んだことを公言している。
●独立後のインドの歩み
独立後のインドは、インド人とともに血を流して独立に協力した日本に対して、大変友好的な態度を取っている。インド政府は戦争賠償の請求を放棄した。初代首相となったネルーは、東京裁判にインド代表としてパール判事を送り、パールは「日本無罪論」を唱えた。ネルーは、日本が独立を回復すると、日本の国連加入を支援した。インドは、世界中で最も親日的な国の一つである。
ネルーは、国内政治では開発経済政策を掲げ、ガンディーが反対していた産業の機械化・工業化を積極的に推し進めた。それによって、インドは貧困と不衛生から脱する道を歩み出した。
戦後世界で、インドは、その存在感を増してきた。1954年(昭和29年)に、ネルー首相は、中国の周恩来首相と会談し、領土と主権の相互尊重や内政不干渉等からなる平和5原則を発表した。1955年に、インドネシアのバンドンでアジア諸国と若干のアフリカ諸国、計29カ国の代表の参加の下に、第1回アジア・アフリカ会議が開催された。この会議では、先の平和5原則を拡大した平和10原則が採択された。1961年には、ネルー首相、ユーゴスラビアのチトー大統領、エジプトのナーセル大統領の提唱により、25カ国が参加する非同盟諸国首脳会議が開かれた。非同盟主義の諸国は、東西両陣営に属さず、米ソ・先進国中心の国際秩序に異議申し立てを行う勢力となった。
宗教対立が根底にあるインドとパキスタンの対立は根深い。1965年9月に第2次、71年12月に第3次印パ戦争が起こった。互いに核武装を目指し、1998年5月、印パ両国が相次いで核実験を実施した。両国の対立は、アジア諸国内の不安定要因となっている。双方が核兵器を持っている点では、中東のイスラエルとイスラーム教諸国の関係よりも、インドとパキスタンの対立は深刻である。
インド国内でも、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立が続いている。1971年に、イスラーム教徒が多い東部地域が、インドからバングラデシュとして独立した。また、インドのジャンム・カシミール州では、1990年以来、州人口の90%以上を占めるイスラーム教徒が、分離独立運動を起こし、反印闘争を展開している。
さて、第2次世界大戦後、日本が1960年代に高度経済成長を遂げたのに続き、70年代には日本と関係の深い韓国、台湾、香港、シンガポールなど、NIES(新興工業経済地域)と呼ばれる国々が急速に発展した。80年代にはタイ、マレーシアとともにインドも、工業化政策を進めて経済開発に成功した。80年代後半以降は、日本の海外投資により東アジアの経済成長はさらに加速し、「東アジアの奇跡」「世界の成長センター」などと称されるまでになった。90年代からは、市場経済を導入した中国が経済成長の軌道に乗り、これに続いてインドも、成長の道を力強く進んでいる。
西洋文明諸国の進出以来、インド文明の精神的伝統は抑圧されてきた。だが、インドが独立し、経済的に発展するとともに、ダルマに象徴される精神文化が世界的に再評価されてきている。
次回に続く。
************* 著書のご案内 ****************
『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
************************************