●リーマン・ショック後の今、ハイエクの評価し直しを
強欲資本主義の背景にある経済学は、新古典派経済学である。新古典派経済学は、ケインズ主義の後退とともに、1980年代から世界を席捲した。新自由主義・市場原理主義の新古典派経済学は、ハイエクの名と切り離せない。だが、ハイエクとフリードマンらとは、基本的な考え方が違う。そのことには注意を要する。
先に書いたように、ハイエクは、人間は完全な知識を持ち得ないとし、「合理主義の思い上がり」を戒める。とりわけデカルト、サン・シモンらの系統を設計主義として、強く批判した。設計主義は、マルクス=レーニン主義やナチズムを生み、世界に災厄をもたらした。私見では、フリードマンらの新古典派経済学もまた、世界に災厄をもたらした。1929年の世界恐慌後、様々な規制で抑えていた強欲資本主義をよみがえらせたからである。ハイエクは、ケインズ主義を共産主義・ナチズムと同類と見て批判する一方、新古典派経済学に対しては積極的な批判をしなかった。ハイエクはこの点で間違っていた、と私は断じる。
ハイエクの言うように人間は不完全なものであり、伝統と慣習を尊重しながら知恵を働かせるべきである。そして欲望を抑え、道徳を守って社会の改善を図っていくべきである。そうした努力には、政府が積極的に経済に関与して国民経済を発展させ、また国際協調によって国際経済を共存共栄の中で発展させるという取り組みもある。この取り組みは、必ずしも自由の喪失にはならない。一定の規制を行うことによって自由を守り、計画を立てることによって調和のある発展を目指すことはできる。そうした理論と政策と思想を打ち出したのが、ケインズである。
ケインズは、平成20年(2008)9月15日、リーマン・ショック後の世界で復活し、再評価が進んでいる。ハイエクは、平成4年(1992)に、サブプライム・ローンもCDSも見ることなく、亡くなった。ハイエクについても、今日の状況を踏まえて、功罪両面から評価し直す必要があるだろう。中谷巌氏を始めとする経済学者は、ハイエクについて理論的な検討を行い、自らの見解を明らかにすべきである。
●経済自由主義と経済ナショナリズム
従来、ケインズとハイエクを比較する際には、自由の概念を中心としたものが多かった。わが国では、間宮陽介氏の論考が知られる。だが、この見方では、ケインズとハイエクを、近代西洋思想史の大きな流れの中で、とらえることができない。近代政治経済学史の通説では、ヒュームやアダム・スミスの重商主義批判から経済自由主義の理論が始まり、リカードらの古典派経済学、ワルラスらの新古典派経済学へと発展的に継承され、それが経済学の主流になっているとする。これに対し、気鋭の経済学者・中野剛志氏は、従来見逃されてきた経済ナショナリズムの系譜こそ、実は西欧思想の正統だったのだ、と主張する。
経済ナショナリズムとは、ネイション(国家・国民・共同体)の発展が国力の増大になるとし、国民の生産力を中心とした国力を増大させようとする思想である。経済ナショナリズムは、18世紀イギリスのヒュームに始まる。ヒュームはアダム・スミスと親交を結んでいた。ヒュームの影響を受けたハミルトンがアメリカ、同じくリストがドイツで経済ナショナリズムを実践し、ヘーゲルが哲学的に深め、マーシャルがこれらを継承した。そして、中野氏はこの系譜を受け継いだ者の一人がケインズだとする。
私は、中野氏の見方は、通説を破る画期的なものだと思う。ただし、私は、経済自由主義と経済ナショナリズムは、相反するものではないと思う。確かに、経済自由主義の潮流の一部は、経済ナショナリズムと対立する。古典派経済学・新古典派経済学の主流には、ネイションの概念がない。しかし、本来、経済的な自由を追求することと、ネイションの発展によって国力を増大させることは、矛盾することではない。ヒュームやアダム・スミスは、自由主義者であり、かつナショナリストだった。それをどちらかに党派的に分類するのは、彼らの思想をとらえそこなうと私は思う。
ところで、イギリスにはネイションと似た概念として、コモンウェルス(commonwealth)がある。「公共の幸福」を原義とし、国家・国民・連邦等の意味で使われる。16~18世紀のイギリスでは、ノルマン系の土地貴族に対抗して、アングロ=サクソン系の民衆(common people)が「公共の幸福」を追求し、自由を獲得していった。その過程で、デモクラシー(民衆政治参加制度)が発達し、市民革命を通じて、君主制議会政治が確立された。そして、自由主義とデモクラシーが結合しつつ、一個のネイション(国民共同体)が形成されていった。経済的な自由主義及びナショナリズムは、こうした政治的・社会的な展開と並行して発達した。自由という価値のみから見る視点、また経済に偏した視野では、社会・思想・歴史の全体像が浮かび上がってこない。自由と平等、個人と国家、政治と経済を包括した総合的な見方が必要だろう。
次回に続く。
強欲資本主義の背景にある経済学は、新古典派経済学である。新古典派経済学は、ケインズ主義の後退とともに、1980年代から世界を席捲した。新自由主義・市場原理主義の新古典派経済学は、ハイエクの名と切り離せない。だが、ハイエクとフリードマンらとは、基本的な考え方が違う。そのことには注意を要する。
先に書いたように、ハイエクは、人間は完全な知識を持ち得ないとし、「合理主義の思い上がり」を戒める。とりわけデカルト、サン・シモンらの系統を設計主義として、強く批判した。設計主義は、マルクス=レーニン主義やナチズムを生み、世界に災厄をもたらした。私見では、フリードマンらの新古典派経済学もまた、世界に災厄をもたらした。1929年の世界恐慌後、様々な規制で抑えていた強欲資本主義をよみがえらせたからである。ハイエクは、ケインズ主義を共産主義・ナチズムと同類と見て批判する一方、新古典派経済学に対しては積極的な批判をしなかった。ハイエクはこの点で間違っていた、と私は断じる。
ハイエクの言うように人間は不完全なものであり、伝統と慣習を尊重しながら知恵を働かせるべきである。そして欲望を抑え、道徳を守って社会の改善を図っていくべきである。そうした努力には、政府が積極的に経済に関与して国民経済を発展させ、また国際協調によって国際経済を共存共栄の中で発展させるという取り組みもある。この取り組みは、必ずしも自由の喪失にはならない。一定の規制を行うことによって自由を守り、計画を立てることによって調和のある発展を目指すことはできる。そうした理論と政策と思想を打ち出したのが、ケインズである。
ケインズは、平成20年(2008)9月15日、リーマン・ショック後の世界で復活し、再評価が進んでいる。ハイエクは、平成4年(1992)に、サブプライム・ローンもCDSも見ることなく、亡くなった。ハイエクについても、今日の状況を踏まえて、功罪両面から評価し直す必要があるだろう。中谷巌氏を始めとする経済学者は、ハイエクについて理論的な検討を行い、自らの見解を明らかにすべきである。
●経済自由主義と経済ナショナリズム
従来、ケインズとハイエクを比較する際には、自由の概念を中心としたものが多かった。わが国では、間宮陽介氏の論考が知られる。だが、この見方では、ケインズとハイエクを、近代西洋思想史の大きな流れの中で、とらえることができない。近代政治経済学史の通説では、ヒュームやアダム・スミスの重商主義批判から経済自由主義の理論が始まり、リカードらの古典派経済学、ワルラスらの新古典派経済学へと発展的に継承され、それが経済学の主流になっているとする。これに対し、気鋭の経済学者・中野剛志氏は、従来見逃されてきた経済ナショナリズムの系譜こそ、実は西欧思想の正統だったのだ、と主張する。
経済ナショナリズムとは、ネイション(国家・国民・共同体)の発展が国力の増大になるとし、国民の生産力を中心とした国力を増大させようとする思想である。経済ナショナリズムは、18世紀イギリスのヒュームに始まる。ヒュームはアダム・スミスと親交を結んでいた。ヒュームの影響を受けたハミルトンがアメリカ、同じくリストがドイツで経済ナショナリズムを実践し、ヘーゲルが哲学的に深め、マーシャルがこれらを継承した。そして、中野氏はこの系譜を受け継いだ者の一人がケインズだとする。
私は、中野氏の見方は、通説を破る画期的なものだと思う。ただし、私は、経済自由主義と経済ナショナリズムは、相反するものではないと思う。確かに、経済自由主義の潮流の一部は、経済ナショナリズムと対立する。古典派経済学・新古典派経済学の主流には、ネイションの概念がない。しかし、本来、経済的な自由を追求することと、ネイションの発展によって国力を増大させることは、矛盾することではない。ヒュームやアダム・スミスは、自由主義者であり、かつナショナリストだった。それをどちらかに党派的に分類するのは、彼らの思想をとらえそこなうと私は思う。
ところで、イギリスにはネイションと似た概念として、コモンウェルス(commonwealth)がある。「公共の幸福」を原義とし、国家・国民・連邦等の意味で使われる。16~18世紀のイギリスでは、ノルマン系の土地貴族に対抗して、アングロ=サクソン系の民衆(common people)が「公共の幸福」を追求し、自由を獲得していった。その過程で、デモクラシー(民衆政治参加制度)が発達し、市民革命を通じて、君主制議会政治が確立された。そして、自由主義とデモクラシーが結合しつつ、一個のネイション(国民共同体)が形成されていった。経済的な自由主義及びナショナリズムは、こうした政治的・社会的な展開と並行して発達した。自由という価値のみから見る視点、また経済に偏した視野では、社会・思想・歴史の全体像が浮かび上がってこない。自由と平等、個人と国家、政治と経済を包括した総合的な見方が必要だろう。
次回に続く。